同労者

キリスト教—信徒の志す—

証詞

礼拝を通して教会を建て上げる

~我が家と我は主に仕えん~
- 第42回東北教役者会(錦秋湖)にて -

藤田 美智子

「私と私の家とは、主に仕える。」(ヨシュア記24:15)

 今回のこと(東北教役者会で証詞をすること)を安易にお引き受けしてしまったのではと、ずっと悩み考え祈りました。何十年も前から、この錦秋湖の集まりは教役者の集まりで、先生方を送りだすことしか考えられなかったものですから、一信徒の私が何を証詞できるのか、何を語るべきなのか、本当に私でいいのか等、ずっと祈りましたし、祈っていただきました。
 数十年前、ある教会の牧師さんは言いました。「証詞は自慢になるから云々」。また別の先生は、「証詞は人の徳を高めるものでなければいけない」と。そんなことを胸の奥に、今日を迎えました。
 自慢になってしまって、徳を高めることにお役に立てないかも知れませんが、ありのままをお話させていただきます。皆様の信仰のお役に立てばうれしく思います。主題の「礼拝を通して教会を建て上げる」~我が家と我は主に仕えん~(ヨシュア記24:15)は我が家の目的であり目標です。

 1957年、私は青森のバプテスト教会で洗礼を受けました。後、父親の転勤で弘前に行って単立の弘前福音教会に集い、宣教師の紹介で1961年今は亡き夫と結婚しました。夫は、その教会にとっては、洗礼を受けたのも結婚式を挙げたのも教会の第一号でしたので、式においては何もかも自分たちで計画しなければなりませんでした。バプテストの執事さんに証人になってもらいましたが、夫の家族はどうしても仲人を立てなければだめだと主張するので、証人と仲人のいる奇妙な式でした。
 でも私たちは、出発の日から家庭礼拝を守りました。夫と私の夢は家族がクリスチャンになることだったからです。しかし、現実は大変な戦いでした。それでも必ずその日が来ることを信じ、夫との家庭礼拝は休むことがありませんでした。
 教会は大学の裏手にありましたので、機会を作っては学生たちを家に招き、食事を共にしたりして過ごしました。それは家族から離れて生活し教会に集まっている学生達の励ましだけでなく、我が家の子供たちにも喜びでした。料理の好きな娘は小学生でしたが、得意の料理を作り、息子は会場つくりにと、張り切っていました。
 夫は教会の奉仕はもちろんでしたが、職場でも熱心に伝道し、教会の行事は職場を休んでも出席しましたから、イエス様と呼ばれておりました。クリスマスには自分の所属する課の家族を家に招いてクリスマスを祝いましたが、誰も反対する人はいませんでした。大胆に伝道できない私は、夫がいつか首になるのでは、と心配でした。けれども神様は、このような夫を愛して下さり転勤の度に、そんなに偉いわけではありませんが、昇進させてくださいました。
 私たちは結婚した当初から、伝道する目標は家族でした。そして将来定年後は、双方の両親を見るための小さな老人ホームを作りたいと祈り続けました。夫は仕事の関係で2年に一度の転勤で、県内はもとより岩手県、宮城県と転居し、そのたびに色々な教会にお世話になったのですが、教派は違っても、転籍し、その教会で奉仕させて頂くようにしてきました。
 私には二人の子供がおります。娘と息子で、幸いどこへ行っても教会学校に行ってくれました。ただ教会によっては、クリスチャンホームの子でも日曜学校にだけ参加させるというところもあり、大人の礼拝の時は外で遊んでいるところが大方でした。ところが仙台のフリーメソジスト教会で、どの子供も静かに礼拝に出ていることを目の当たりにし、二人の子供たちにも出席させました。ここでは、クリスチャンホームの人たちは、どうしたら子供たちに信仰を継承してもらえるかとか、CSや礼拝はどうするか等、熱心に話し合っていました。
 やがて子どもたちも成長し、娘は中学から東京の自由学園へ、息子は北海道大学で、KGKやクラーク会などで、宣教師や牧師先生に訓練を受けました。今は共にクリスチャンホームを築き、孫達もクリスチャンになりました。夫は孫たちが小さいうちから教会に連れていきましたが、決して強制ではありませんでした。とにかく自分が教会に行くのが楽しいものですから、ルンルン気分です。すると孫たちもルンルンとついていきました。
 町の人々への伝道の拠点になる場所を作りたいと退職金を投げ出し、弘前に建ててある家を売り、両親の住む実家も売却、それでも条件の良い所は、土地代だけにしかなりません。近くの銀行に、土地を担保に借り入れを申し込みましたら、なんとその銀行の支店長さんが、「私も小さい時日曜学校に行きました。やってごらんなさい」と、必要額を融資してくれました。
 こうして、定年2年前退職、教会のない八戸の裏手の町にパン屋と喫茶店を開きました。老人ホームは夢となりましたが、四人の両親の面倒は、私たちで最後まで看ることができました。ただ、一度に私の両親が寝たきりになり、家での看護の時は兄妹のいない私は、従妹をはじめ色々な方にお世話になりました。中でも、夫の力は大きかったのですが、その夫も倒れ、家庭で三人の介護には限界があり、結局三人同じ病院に入院させていただきました。病院を紹介してくださったのは、三人のため何時も祈り励ましてくださった、クリスチャンの医学部教授ご夫妻でした。私が看病しやすいようにとのご配慮です。
 父か母をそれぞれ夫の病室に連れて行くと、手を取り合ってアーメン、ハレルヤと言っている光景は、若い頃には想像さえできない事でした。病気と闘う三人でしたが、父が召された三か月後夫が天に、それを見ていた母は、夫が先に召されたことをただ悲しみました。一人になった母を家に連れ帰り、家族と生活できたことは大変なよろこびでした。やがて母も天国へと旅立ちました。一家が全員救われるまでなんと40年の歳月がかかりましたが、すべて神様のご計画の中にあったことを今はっきりしることができます。
 嫁姑の問題、子育ての時、病人の介護の時、時には教会でつらく悲しいことがいっぱいありましたが、それは何一つ無駄なことではありませんでした。今があるための必要な出来事でした。
 店の経営も順調で来たわけではありません。けれど、私はすべて通らなければならなかった道だったと思います。夫が召されて14年、店のお客さんが3人洗礼を受けました。皆別々の教会です。
 今、近所から60代のご夫妻が洗礼を受け、若者が数名教会に行くようになり、私の小さな車では、送迎はむずかしく、時々違う教会に通う孫や娘に送ってもらったり、求道者の青年に乗せて行ってもらったりします。夫のいる間に実現できなかったことは残念ですが、むしろ信仰の薄い私や子どもたちを励ますための神様のご計画だと思います。今、店は家族で経営しております。信仰をもった娘婿の両親も一緒です。
 なによりもこうして、信徒、求道者が毎週喜んで礼拝を守るとき教会として成長し、建て上がっていくのではないでしょうか。難しい理屈ではありません。ただ、イエス様は私たちの罪のために、十字架にかかられ死んでよみがえってくださったことを信じ、聖霊によって新生したものの集まりが教会です。私たちはその一員です。一員である喜びを素直に表すものの多い教会ほど祝されると思います。日々、主に与えられた恵みを感謝しつつ、「万人祭司」の心意気をもって歩んでいきたいと存じます。
 2007年、ロスアンゼルスから店のためにと応援に来て下さったNCM2(ニュークリスチャンミュジックミニストリー)のメンバーの多くの人たちは、岸 義紘 先生の神学校JTJの卒業生で、その神学校で学ぶことをすすめて下さったことと、目の前に色々問題を抱えている人たちにどう接すべきか悩んでいた時でありましたので、継続できるかも考えず、JTJの通信講座を受けました。終わりのない学びです。

藤田美智子

(八戸福音キリスト教会 会員)

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