同労者

キリスト教—信徒の志す—

わかふうふ、わかもん、いっしょに学ぼっ!

— 愛の重荷 —

山田 行

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ 11:28-30)

 この聖句の「疲れた人、重荷を負っている人」というところがありますが、罪によって苦しんでいる人々、世の様々なことで疲れてしまった人など未信者のことを指しているのではないかと思っていたときがありました。しかしこの聖句をよくよく繰り返して読む時にこれは、信仰の戦いを精一杯戦い続けている人々に対しても神からの慰めと励ましが本当に溢れている御言葉であることを感じました。
 私が心に留まったところは「わたしのところに来なさい。休ませてあげます。」というところです。「重荷をおろしてあげます。」ではないのです。ということは私たちに与えられている福音の業や伝道の重荷で隣人に対する愛の重荷でもあると思いました。
 私は若い時に一人の友人に神様の救いを知ってもらいたい、罪の悔い改めをしてほしいと日々祈り共に歩んだ時がありました。彼女とは小さな時から友人でとても仲良く遊んだりしていましたが、色々な事があって話も出来なくなったり、連絡もとれなくなってしまいました。けれどもどうしても彼女のことを忘れることができず、心にとげのようにちくちくと刺さる思いがしていました。それは神が彼女を救いに導きたいと願っておられて、そのお手伝いを私にしなさいとおっしゃっているのかな?という思いに導かれていきました。でもどうやって?連絡も取れないし?まず私を嫌っていたらどうしよう?など言い訳を並べていましたが、不思議なようにもう一度連絡をすること、話すことが出来るようになって来ました。
 しかしそこからが問題でした。とても時間がかかりましたし、何度も悲しい思いもしました。なかなか伝わらない分かってもらえない日々でした。だんだんと自分にはそんな力や能力もないしこんなに祈っても道が開かれないのは私が使わされたのではないからだ。などと思いつめていった時がありました。そしてどうしようもない疲れた自分を、重荷から解放させて、別の人にお願いさせてほしいと叫んで神の前に泣きながら出た時に、御言葉の通りに休ませてくださいました。重荷は下ろすことは赦してくださいませんでしたが、心に平安が与えられてもう一度立ち上がったことでした。あせらないで神の前に祈り続けようと決心したのです。少しずつ絶望の思いを希望に変えていただき、私が考えていた以上に神の御手が友人の心を揺り動かしていたのでした。
 それから後私の愛する友人は罪の悔い改めをしイエス キリストの十字架の血潮によって救いの恵みに入ることが出来ました。そのすばらしい悔い改めの現場に共にいて喜ぶことが出来、それは神のくすしい業をあなたの目できちんと見なさいと神が言われているようでした。本当に感謝しました。
 そして今、私に与えられた愛の重荷は子供たちであります。疲れますし、途方にくれるときもあります。誰かにお願いした方が良いのでは?という思いになる時もあると思います。しかし神は、私たちの教会で何度も救われる人たちを見せてくださいました。それはそれぞれに愛の重荷を下ろさないで隣人のために祈り担い続けた人々を与え続けてくださったからだと思います。私も自分の子供もありますが伝道の重荷を担い続けて行きたいと願っています。
(仙台聖泉キリスト教会 会員)

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