同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 体で覚えるキリスト教 —

「聖書はみな神の感動によるものにして教誨(おしえ)と譴責(いましめ)と矯正(きょうせい)と義を薫陶(くんとう)するとに益あり。これ神の人の全くなりて、諸般(もろもろ)の善き業に備えを全うせん為なり。」(テモテII 3:16-17 文語訳)

 昔からキリスト教についてこういうことが言われてきました。「キリスト教は頭でするものではない。心でするのだ」と。そこで、今回皆さんに訴えたいことは、「体でする」キリスト教です。前月、117号の論説に、師弟関係の重要性を述べましたが、全く同一のことをことばを言い換えているのです。
 パウロはテモテに対して、「あなたは幼い時から聖書を知っている。聖書はキリスト・イエスによる信仰によって救いに至らせる知恵をあなたに与えることができる。」と前置きしてから、聖書はこういうものだと冒頭に引用したみことば語りました。パウロは聖書の働きとしてここに四つのことを取り上げています。
教誨(おしえ)
譴責(いましめ)
矯正(きょうせい)
義を薫陶(くんとう)する
の四つです。
 難しい漢字が並びますが、教誨(おしえ)の「誨」は、教とおなじく「おしえる、さとす」という意味で、ことばを重ねて意味を強めているのです。
譴責(いましめ)は通常の読み方では「けんせき」で、しかることです。
矯正(きょうせい)は、正しい形からずれているものをなおして、正しい形に戻すことです。
薫陶(くんとう)の「薫」は、香を焚き込む・・衣類などに香りを染みこませること・・で、「陶」は焼き物を焼くことです。その香りを深くその人の中に染みこませ、粘土を望む形につくり上げて、それがぐにゃぐにゃと変わってしまわないように焼き固める、そのように人を育てることです。
 師弟関係のないキリスト教では、伝えられることが教誨(おしえ)だけにとどまり、残りの三つはできないのです。教えは頭で受け取れるかも知れませんが、残りは体で覚えると表現できるでしょう。教えは喜んで聞いても、残りの三つを受けることを人は苦痛でいやがります。ですから師は嫌われ役をすることになります。 製造業の工場で物を生産するとき、作業標準書というものを作ります。それにはどのような原材料を使い、どの機械にどの治具をつけ、どのように加工するか、そのこつ、仕上がりの形はどうで、どのような検査をして次の工程に渡すといった一連の内容が書かれています。しかし、作業標準書を貰ったからといってそれでものが造れるのではありません。馴れた先輩工員から、手取り足取りやり方を教えられて、ものが造れるようになります。 師弟関係のないキリスト教は、作業標準書を渡しただけで「事足れり」としているようなものです。

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