同労者

キリスト教—信徒の志す—

JSF&OBの部屋

関 心

石井 和幸

「最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」(ピリピ 4:8-9)

 今から10年ほど前のある日、私は年下の某兄と、テレビの野球中継を2人で観ていました。彼は中継を観ながら、「ジャイアンツはだめですよ。」と言いました。「どうして?」 と私が聞くと、彼は「とにかくふざけてますよ」と答えます。「どういったところが、どれ位ふざけてるように見えるの?」と私もあえて尋ねると、それ以上、彼は言葉が続きませんでした。彼はあまり野球に関心をもつ人ではありませんでしたが、私と関わりを持とうとして、話しかけてきたという状況は分かりました。私は彼に、「野球ってね、こういうところに着目すると面白いよ・・・野球だけじゃなくて、物事ってまずしっかり観察してから判断するといいよ」と話しました。 私にとって、かつてそのことを教えてくれたのは父でした。一見、「なんだ、つまらないなあ」と思うことでも、何かしらの感想を必ず持っていたのが父でした。また、信仰生活を営むなかで、偏りがちの視点、歩みを今も是正してくださるのが牧師・伝道師の先生方であります。
 私は9月に6年間勤めていた会社を辞め、親が経営する会社に10月から入社しました。大学卒業後、すぐに家業に携わるのではなく、地元の鉄工所で6年、ステンレス販売会社の営業マンとして6年、主によって導かれ、守られたことを大変感謝しています。
 この12年間で、学んだことの一つは、「何に関心をもち、何にこだわりを持つべきか」ということです。 10月から仕事をしているなかで、12年の時を経た私の「視点」・・・会社の良いところ、問題点、様々な状況に目が留まります。しかし、そのままでは「ジャイアンツはだめですよ」としか言えなかった若い某兄と変わらないのです。いくつもの歳月を経た会社、組織がそこに行き着いたプロセス、理由をじっくり探り、またそこで営まれていることに自らも労苦を共にして、判断、行動する必要があります。せっかく関心を持っていた事柄も、いつのまにか惰性のうちに「無関心」になってしまうことを警戒していかなければならないことも覚えます。子育てについても、「なんか娘が泣いていたみたいだ」「なんか今日は機嫌が良いようだ」と、具体的な検証、対策をせず次第に注意と関心が薄れてきてしまうことに警戒しなければなりません。
 私は教会にて、講壇から語られるメッセージのみならず、多くの方々の証しを耳にします。聖書のみことば、お勧め、主の示しにふれる機会は多くあります。それにもかかわらず、いつのまにか自分が主の摂理、ご期待、示しに「無関心」になってしまっては、信仰は生きたものになりません。
 先日ある人から、昨年のクリスマス祝会の準備にて、私が一時間かけて照明の位置決め、テストをしていた姿が印象に残っている旨を聞きました。私は、何も「素晴らしい照明だったね」と評価、称賛されることを目指していたわけでなく、理由はただ一つ・・・劇のエンディングで登場するキャスト全員のいい顔をしっかり照らしたかったのです。(このままではどうしても左端のMさんが暗くなっちゃうなぁ・・)等、あれこれ気にしているうちに、何度もライトの位置を変えてテストをしました。一つのことに関心・執着を持ったゆえに、行動していた自分を再確認しました。
また、それとは逆に、今までの歩みを振り返る時「気になってはいたけど、結局実行しなかった」「そういう考えも持ったけど、検討もしなければ、誰かに相談しないで終わった」という場面が多々ありました。
関心を持ち、祈りつづけ、それが自らの使命、十字架であると示されたなら、こだわって取り組む・・・「そうすれば、平和の神がともにいてくださいます」との神の約束を堅く信じていきたく思います。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)

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