同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 霊のものと世のものについての価値観 —

「もし私たちが、あなたがたに御霊のものを蒔いたのであれば、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは行き過ぎでしょうか。」(コリントI 9:11)

 前号の論説に、教会の会員となった信者が信仰を放棄するという現実があり、その重要な原因のひとつに、住居を移動する、別な土地に行って住むということがあることを述べました。そして、同じ教会にとどまっている風土を教会が持っているようにすべきであると強調しました。
 信仰は、本当に確かにその人の中に根付いたなら、どこに行って住んだとしてもそう簡単に失われるものではありません。しかし、「救われました」というその内容に問題があるのです。
 教会を訪れるのは高校生、大学生くらいの若い年齢であることが多いことはいうまでもありません。彼らには真剣に自分について考え、悩み、またそれを探求する時間があります。職業につき、忙しく世の働きに没頭するようになると、だんだんそのようなことは考えなくなります。
 教会を訪れたそれらの若い人々が、キリスト教に触れてそれを受け入れますが、自分の罪の問題にしっかり向き合うに至らないまま、勧められて信者になる決心をし、洗礼を受け、教会員になります。そうして教会に通っているうちに、キリスト教の知識をもち、教会に慣れて信者としての生活をします。そのような過程で、信者となった人々は、長くその地にとどまって、その席を置いた教会に通い続けるなら、折に触れて、神は彼らの魂をお取扱いになり、信者に相応しくお整えになります。
 ですから、そのような形で人々を教会に迎え入れることに、決して反対ではありません。しかし、そのような未熟な信仰状態のまま、学校を卒業するなどの後、就職のため、よその土地にいってしまうことが問題なのです。教会は一人の信者を獲得するために、多くの労を払います。一人の悔い改める人のためにどれだけ多くの祈りが積まれ、その対応のための働きがなされることでしょうか。それを労働と見た場合、どれだけの賃金が支払われることでしょう。救う働きをする人も、救って頂いた側の人もそれを正しく値積もることが必要です。そして更にこの世の賃金では推し量ることのできない、永遠のいのちという大切なものを、そのような対価が払われて与えていただいたことを自覚すべきです。それに相応しい対価を教会にささげるべきなのです。
 「神がご自身の血をもって買い取られた神の教会」(使途 20:28)の一員としていただいた、その自覚を持つ必要があります。救われた教会に長くいることは、永遠のいのちという大切なものを与えられたことに対する感謝であると同時に、自分自身の魂を守ることにつながります。そのような価値観をしっかり持ち、行動をすべきなのです。

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