同労者

キリスト教—信徒の志す—

人物伝

- 山本岩次郎牧師の思い出(4) -

秋山 光雄

第1部  私の見聞きした思い出集(つづき)

荒川教会の献堂式

1952年、教会総会でこの年の5月に献堂を目指して80万円の予算を立てたが最初の予約表明は24万3千円と荒川教会の週報に記されている。大工経験のある岩次郎は専門大工に混じって奮闘し多くの試練を越えて開拓5年目の5月、新会堂を献堂した。この間伝えられた礼拝メッセージは、「教会建設者の資格」と題する一連の説教であった。(この献堂の戦いを通して私は献身に導かれたわけだが岩次郎牧師の思い出とは異なるテーマなので省略する。)ちなみに、当時の教会員は40名前後、年末感謝献金の目標2万円と記録されており、現在の貨幣価値と比べれば興味深い。ともかく予定の同年5月25日、本格的な教会堂が献堂されたのだった。岩次郎牧師によると、「献堂と共に献身者の生まれることを祈っていたが、それが君だった」と私への後日談である。

教団離脱問題

 1969年3月、イムマヌエル綜合伝道団を離脱する問題が起こった。詳細は『聖泉合本第一巻』に読むことができ、最近では秋山直光のまとめた、「聖泉の今までとこれから」などから知ることができる。要は教団所有の不動産を蔦田総理の独断で処分した問題から発し、宗教法人規則違反、監督権の専制化、宗教法人の教団統一化、それに抗する役員幹部たちとの抗争などであった。当時の役員たちは、そのため役員を辞任して抗議したのであったが離脱にまで踏み切ったのは岩次郎ただ一人であった。
 元来、教団の弱点や現実の危機を指摘する山本岩次郎と、責任者として前向きであり信仰的展望を持つ蔦田とは見解の違いを見せる場合が多かった。特に教会や若い牧師たちの実情を憂慮、指摘する岩次郎の説教に対しては、その説教後、決まって講壇に立っては締めくくる蔦田総理のそれを否定する明らかな言葉は常例であった。そんなとき、「山本先生の指摘するところを心に留めつつも、失望するほどは心配無用。やがては、こうなりましたと証しする日が必ず来る」と、“余計な心配をするな”、と思える締めくくりがなされたが、それは群れの責任を担う指導者としてやむなしとうなずける所為(せい)でもあった。

山本岩次郎牧師に関わるエピソード

 とにかく山本岩次郎は天衣無縫、てらわず飾らない人だった。ある時は泣き、ある時は笑い、そしてある時は無邪気にふるまい、ある時は激怒した。以下に、思い出す山本岩次郎に関わるエピソードを順不同であるが記しておこう。

▲命がけの説教(1)

 礼拝説教中、泣く子供の親に向かって講壇から鋭く、「その子供を外へ連れ出せ!」と怒鳴った。しかも母親ははるばる田舎からやって来た他教会の信徒だった。もちろん牧師夫人がその人のアフターフォローをしたのであるが、それはあたかも信徒を無視した暴言のように見えるかもしれないが、彼はそれほどに説教に全身全霊を傾けていたのである。

▲命がけの説教(2)

 説教中に、「モーセの弟アロンは・・」と言った時である。後ろに座っていた蔦田総理が小声で「アロンは兄だよ」とささやいた。「何?」と後ろを振り向いた岩次郎、「そんなことはどうでも良い!」と切って捨てたのである。誰も総理に返答する牧師などいない空気の中で、「そんなことはどうでも良い!」と大喝したのである。メッセージに打ち込んでいる牧師にとって主題でない小さなミスは大したことではなく、説教の本筋からはどうでも良かったのであろう。それほどまでに説教に全力を傾けた一コマまであった。

▲怒りの爆発

 教団の聖会で、前座の証に立った若い牧師が、「路傍伝道をするのだが集まってくるのはロクデモナイ者たちばかり・・」と言ったときだった。講壇の牧師岩次郎はスックと立って顔を真っ赤にし、「ロクデモナイとは何だ!君は自分を何様だと思っているのか!」としかりつけたのだった。もちろん会場には一瞬緊迫の空気が漂った。岩次郎の正義感、人を大切にする激情のほとばしりと感じた。講壇の蔦田も無言だった。

▲たしなめる牧師

 ある田舎の家庭集会で障害者の老婦人が、「こんな体で生きていても仕方ない。早く死にたい」とつぶやいたときだった。岩次郎は、「そんなことを言ってはいけません。障害の子供が『死にたい!死にたい!』と言ったら親はどんな気持ちになりますか。神さまも同じです。信者が苦しいから死にたい死にたいと言ったら、神さまはどんなに悲しまれるか。そんなことを言ってはいけません」とたしなめたのである。

▲悩みを包む牧師

 私が会社に勤めながら献身者として教会に同居していたときのこと、腹痛を起こして病院に行ったときである。医者は“疑似赤痢”と診断した。一瞬ハッとした。まず心に浮かんだのは世話になっている教会への迷惑だった。心重く帰ったところ目に入ったのは白衣を着た数人の保健所の係員たちだった。すでに消毒を始めているようだ。心配は現実となった。「赤痢患者が出たなら集会はできなくなるかもしれない。大変なことになった。」申し訳ありませんとわびる私に岩次郎牧師は先ず祈ってくれた。「恐るる勿(なか)れ、ただ信ぜよ。・・・」この一言が私の心をホッとさせてくれた。後どんな祈りを捧げてくれたか覚えていないが今もって、あの一言が心に残っている。それは責めるのでなく許しと抱擁を感ずる祈りだった。

▲ナイフを突き付ける個人伝道

 酒に溺れ家族を困らせる信徒を個人伝道した時のこと。隣室にいる私の耳に岩次郎牧師の鋭い言葉が聞こえてきた。「ばか者!お前のような人間は腹を切って死ね。ここにナイフがある。さあ早く腹を切れ!」何ともすごい個人伝道である。知らない人が聞いたら大問題にしそうな言葉である。しかし、それは彼らの家族を熟知し何度も何度も涙を流して導いていたゆえの、有無をいわせぬ談判だった。それほどまでに家庭の中に入り込んだ牧会だったのだ。

▲悔い改める牧師

 人に悔い改めを迫るだけでなく自分自身も素直に謝る器だった。何かのことで妻といさかいをしたまま出かけたが途中で自責の思いにかられ、戻ってきて謝ったという話を聞いた。また、ある若い牧師に不快を与えたと聞いたとき、やはり、「ごめんなさい。私が至らなかった」と謝罪したのであった。離婚のやむなきに至った某に対して直接、牧師の牧会責任ではないのに我がことのように、「気の毒な結果になってしまって済まなかったね」と同情と軽い謝罪を込めて言われたのも心に残っている。

▲涙の説教者

 岩次郎は、“涙の預言者”エレミヤのような牧師だった。説教中感極まって絶句し、しばしば泣いた。これは他の牧師たちには見られない光景だった。単に情にもろいだけではない。自分の弱さに、信徒の窮状に、注がれる神の恩寵に声を出してよく泣いた。会衆は岩次郎をまともに見られなく胸を迫られ下を向く以外になかった。かつて伝道者本田弘慈は若い牧師たちに向かって、「説教ができなくなったら講壇で泣きなさい。泣くと聖霊は感動を与えてくれる」と語ったことがある。真実の涙は人の心を動かすものである。
 ある若い牧師が沈鬱(ちんうつ)の中で教えを求めて岩次郎のもとを尋ねた。話し合う途中、岩次郎は大声で泣き出し、そして祈った。「神さま。救いすら分からない者が牧師をしております。こんな牧師に牧されている信徒は何と哀れで気の毒でしょうか。どうぞ彼を憐れんでください。救ってください。」祈られた若い牧師は何で泣かれるのか分からずあぜんとしていたという。
 これは岩次郎牧師自身が話してくれたことである。

▲祈祷に伴う神の臨在

 牧師山本岩次郎の礼拝祈祷は、一種独特で人々を神の前に引き寄せる力があった。かつて、小嶋彬夫は岩次郎の祈祷について、「山本先生が祈られると会場に神の臨在がひしひしと感じられる」と言ったことがある。それは、決して流暢な名文句ではなく切々と神の前に頭を垂れ、罪と弱さを披瀝し、憐れみを求める罪人の祈りであった。そこに罪と弱さを自覚する会衆の共鳴を呼んだのである。正に律法学者の祈りではなく取税人の祈りを思わせるものだった。ルカ伝福音書18:10より。

▲決死の祈祷

 私が献身者として教会の3階に住んでいた1954年の真冬、岩次郎はこの年の5月には長男・光明、次女・継実と私を神学院に送り込もうとしていた。しかし光明は頑として献身を拒んでいたようだ。そこで岩次郎は真冬の1月、すっぽりと毛布をかぶり、毎朝4時ごろには起きて会堂の講壇に伏して祈った。朝6時ごろそっと階段を降りて来る私は息を殺し足音を忍ばせて、祈っている岩次郎牧師の後ろを横切ったものであった。
 岩次郎は潔めの経験をしたとき、神に誓ったそうだ、「自分はもちろん、私の子供たちもすべて神に捧げます」と。自分の子供たちすべてを献身させることは、岩次郎の信仰であった。すでに長女は献身していたが最大の難関は長男・光明の献身のようだった。何としても乗り越えなければ牧師生命も終わりと必死の祈りが続いた、後日談によれば、「早朝起きるために、水をいっぱい飲んでトイレ行きで目を覚ました。祈りというよりうめきと涙の訴えだった。私の人生であれほど祈ったことはない。まさに私のゲッセマネだった」と。まさしくジョン・ノックスの、「我に命を、然(しか)らずんば死を」という祈りに通じるものだったと思う。その祈りは毎朝1ヶ月も続いただろうか。4月25日の週報に次のような記録がある。「主牧は既(すで)に1ヶ月以上も早朝4時に起きて祈り始めている。祈りはひとつひとつ応えられつつあり、やがて真昼の如(ごと)く明らかに業の為(な)されしを証しする時が与えられる時の事を信じています」と。

▲捧げられたイサク

 年に一度春、すべての牧師が招集されて数日間の集会を持った。事務会と一般集会に2分され、事務会では全牧師と各教会の信徒代表者が集まり、前年度の教会財政、伝道活動についての報告、次年度の計画などが検討された。夜は一般集会で幹部牧師の説教があり最終日の日曜日には合同礼拝があり、その中で総理の説教に続き、牧師の子供の献児式、教職、準教職などの認証式、最後は牧師の任地発表などが行われた。
 その年の“年会”の第2夜の説教者は岩次郎だった。彼はイサクを捧げるアブラハムの信仰を語った。説教が最高潮になったとき、涙で説教ができなくなり黙って講壇の椅子にへたり込んでしまった。例によって蔦田総理が締め括りに立ち献身者が募られた。多くの若者が講壇の前にひざまずき祈りが捧げられた。目を上げた岩次郎の目に映ったのは講壇の上で泣きながら祈っている息子の姿であった。その光景を私は見ることができなかった。なぜなら私も講壇の前にひざまずき伏していた一人だったから。この感動に満ちた説教で多くの献身表明者がすすみ出た。その中に献身を躊躇していた松村牧師の長男、献一も献身を表明したそうだ。

 (以下次号)

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