同労者

キリスト教—信徒の志す—

人物伝

- 山本岩次郎牧師の思い出(3) -

秋山 光雄

第1部  私の見聞きした思い出集(つづき)

千葉県銚子時代(1935年~1939年)

 銚子時代の4年間は、キヨメられた後の聖霊に従う歩みの訓練時代だったと述懐しておられた。自力、律法的な裁きの説教者から聖霊に依り頼んで歩く“霊の人”への歩みだった。
 それはまさにイエスに砕かれたパウロのアラビヤ時代、荒野に逃れたモーセを思わせる経験だったのだ。田舎の小さな教会と数少ない素朴な信徒。そして静かな田園の町“銚子”は心をいやし、主を仰ぐのみの生活には最も良い備えられた所であった。もっぱら13里(50キロ余り)の道を自転車に乗っての巡回伝道が主な仕事だった。(それは1936年/昭和11年ころか。継実はそこで誕生している)。
 この銚子伝道の時代のことでは、私の記憶に一つ話がある。ある老姉を訪問したときのこと、老女は言ったそうだ、「偉い先生のお話は高級百貨店のようでオラの買える物はないし手が届かない。でも山本先生の話は近くの雑貨店みたいで気軽に出かけられるし、オラの欲しいものが何でもあるもんで、田舎者には助かるわ」と。

淀橋時代(小原十三司牧師のもとに副牧師として)

 1939年岩次郎は、淀橋教会の副牧師として転任した。そこの主任牧師は有名な大牧師であり大先輩の小原師であった。かたや、庶民派の岩次郎はかえって信徒に人気があったらしい。それも、銚子時代の聖霊に従うことによって身についた謙遜の香りではないかと思われる。あるとき前座説教をしている牧師の後ろから、「そんなことはない!」という小原師の大声が飛んできた。豪放のようでありながら繊細な神経の持ち主である若き牧師は、その声に失神して倒れてしまった。
 余談ながら小原師の奥様は、「鈴子」という名で、ある華族のお嬢さまだった。岩次郎牧師が神学生のころ、仲間と戸別訪問をしているとき、立派な門構えの家に思い切って入って行ったところが、それが何と華族のお屋敷だったそうだ。それが小原師の奥様の家だったそうだが、真偽の記憶は聞いた筈だが忘れてしまった。ちなみに『インマヌエル讃美歌』に小原鈴子先生の作詞による賛美歌が載せられている。今すぐ何番か指摘できないが、丹念に開いて行けば、その名前に当たる。

空白時代

 1942年6月26日、国家の安全を守るものとして治安維持法の名のもとに教会や指導的牧師ら133名が拘束された。特にホーリネス系の教会の再臨思想は厳しい審問を受け、解散を命じられ財産は没収された。ちなみに蔦田二雄もその一人で2年間巣鴨の刑務所に拘束された。
 岩次郎は、教会弾圧と解散、戦争、妻の召天、子供との離別生活、再婚と敗戦、という試練の暗い空白期には2年間で10回も転居を余儀なくさせられた。敗戦によって解放され信仰の自由の夜明けが来て再び活動を始めたのは1945年9月のイムマヌエル総合伝道団の開拓伝道のときからである。蔦田は2年間の投獄中、再び自由が与えられたら旧来の一切の関わりを離れ独自の構想で新しい群れを作ろうという幻が与えられ、その群れの名も、「神われらと偕(とも)に在(いま)す」を意味する“イムマヌエル”と決めていたのであった。幻とは一般的に分かりやすく言えば、心に示された個人的希望、またビジョン(展望)とでも言えようか。岩次郎の船橋から荒川の初期開拓伝道は前述のとおりであるが、以下は私も直接関わった岩次郎牧師とその働きを記してみよう。

私の受洗

 1949年12月12日、初めて東京電信局の聖書研究会から教会に加わった私は
翌50年6月25日、江戸川で6人の兄姉と洗礼を受けた。どんよりした梅雨空の下、濁った川水の中で証人の役員、油井武志が見守り牧師の、「秋山光雄、われ、父と子と聖霊の名によって汝(なんじ)にバプテスマを授く。アーメン!」すると見守る教会員らが一斉に、「喜びたたえよ、主のみ名を。み栄え永久(ときわ)に絶えせざれ」と歌った。色あせたその時の、洗礼を施す写真が懐かしく当時を思い出させてくれる。当時洗礼といえば江戸川で浸礼によるものだった。(バプテスマとは洗礼のことであり、洗礼には普通二とおりの形、浸礼と滴礼が一般的です。浸礼とは信仰を告白した人が牧師によって体全体を水に浸す儀式で聖書の記録はこの浸礼を示している。また適当な川や海が近くにないため教会堂内に設けられた洗礼槽でする浸礼もある。滴礼とは冬の寒さのため、あるいは川や海が近くにないため教会堂で水を盛った洗礼盤から牧師が水を頭に注いで行う儀式をいう。)その後、献身した私は洗礼式の度に山本光明(岩次郎牧師の長男)と江戸川まで着替えの用や幕や用具を積んで約20キロの道を自転車で往復したものである。

PTLのメモリアルホール伝道大会

 1950年11月25日、メモリアルホール(旧両国国技館)においてイムマヌエル綜合伝道団は、PTL(ポケット聖書連盟)と共催の大伝道会を開いた。敗戦後、いや戦前も含めてこれだけの大集会がもたれたのは恐らく初めてではなかっただろうか(その後、ビリー・グラハム大会、東京代々木体育館大会、宣教百年大会、万博記念大会、甲子園リバイバル大会はじめいくつかの超教派伝道も行われたが)。1950年のメモリアルホール大会は、戦後まもなくであり各教団は未形成時代でもあり、また再建に追われていた時代であり、いち早く福音的教団として活発に伝道を展開していたイムマヌエル綜合伝道団が同じく福音的団体であるPTLから提携を呼びかけられたのであった。このイムマヌエル綜合伝道団挙げての一大イベントで岩次郎牧師はもちろん、開設間もない荒川教会も全面協力したのである。受洗間もない私も腕に腕章をつけて晴れ晴れしく会場整理の奉仕に当たった。約2万人が大ホールを埋め尽くし、入り切れなかった大群衆が場外にも溢れたのである。この時のテーマソングが中田羽後(なかだ・うごお)による、「われは幼子われ主にすがらん」の賛美歌だった。この大会は警備、交通整理のため警察官も動員され、キリスト教会関係の新聞はもちろん一般新聞、テレビ、ラジオなどのマスコミも取り上げた注目の集会だった。

両国支部の誕生

 メモリアルホール伝道大会への求道者のほとんどは蔦田の丸の内中央教会に行き、岩次郎の荒川教会にも何人かが加わった。あと残った地元深川の数人の牧師の責任において深川図書館を借りて集会を続けた。これには古くからの信徒・安田兄が図書館勤めだったことも会場借用に有利に働いた。現在でも活躍しているメモリアル両国からのメンバーとしては浅澤(旧姓・吉川)幸雄、木津明夫、遠藤(旧姓・鈴木)とみ子などであろうか。当時、池袋の寮に住んでいた私も現在、一麦名古屋教会に属している板橋(旧姓・坂本)、正子と共に両国支部のためにできる限り出席して協力したものである。

仙台の開拓伝道

 1951年は教団の全国主要都市の宣教活動のスタートとして仙台、名古屋の開拓伝道が行われた。開拓伝道と称して、新しい教会を作り出すために何の手掛かりもない地域に布教活動をしたのである。(呉の開拓伝道も同時だったと思う。以前、岩次郎や私が所属していたイムマヌエル綜合伝道団の資料はほとんど廃棄して今は手許になく、わずかな資料は、荒川教会の週報の一部(別記)と私が所属、歴任していた時代の資料しかないので記憶も定かでない。)仙台の開拓戦の責任者は山本岩次郎。名古屋は静岡の牧師松村導男だった。
 岩次郎の仙台戦を荒川教会の同年7月15日の週報で見と、1951年6月26~30日にわたって行われ聴衆は約3000人、決心者500人、予定外の7月1日の日曜礼拝には約120人、続く7月8日には135人が集まったと記録されている。当時イムマヌエル綜合伝道団はいち早く牧師を育成、教育する神学院を開設しており、仙台での開拓戦のあとのことはその神学院の第1期生の小嶋彬夫に託して、伝道は勝利のうちに終わった。確か第1回の洗礼式には65人の受洗者があり、岩次郎牧師の司式では最後の方は口がもつれるほどだったと聞いている。“新年聖会”と言って、新年初頭に開かれるクリスチャン研修会があり、各地に散らばって教会活動をしている牧師や信徒たちが東京に集まり幹部牧師たちが、その年の指針を説教したものである。あくる1952年には小嶋は救われた若いクリスチャン30名近くを引き連れて上京したのであった。

名古屋の開拓伝道

 仙台に続く第二次開拓伝道の拠点となった名古屋は、1951年7月16~17日で“松坂屋”裏の野外ラレーには約1000人。翌17日は雨のため急遽、会場を駅前の愛知商工会議所に移し約700人の聴衆。18、19日の求道者会は50~70人くらいで全体からみると苦戦をかんずる・・・、と荒川教会の週報に記録されている。(ラレー Rally とは政治的また宗教的大集会のことで、それが野外で行われたので、野外ラレーと言った。)後事は神学院第1期生の大恵松夫が当てられた。
 それ以後も各地で開拓伝道、“枝教会”の開拓が次々と行われ幹部牧師たちはその奉仕に当たった。(枝教会とはその教会が新しく作った支部教会のことであり、その支部教会が経済的その他で自主独立できた場合、○○教会が生んだ枝教会と言った。)特に、岩次郎は教団の伝道部長であり在京でもあり教会力もあり庶民向き説教者でもあってほとんど各地の講師として説教を務めたものである。
 (呉の開拓戦についての詳細は荒川教会の週報にも記載がなく不確かだが、ここには同じく神学院第1期生の中野貞行が後事を担当したのである。)

当時の主な幹部級牧師とその背景

 当時の教団最高幹部は役職名を総理といい蔦田二雄総理。次は諮問教職として大橋武雄、山本岩次郎、松村導男の4者、蔦田二雄の弟福田約翰、目の不自由な佐藤勇、病弱気味の川口始などがその後に続き、さらに戦前の蔦田の茂呂神学塾の教え子である岩城幸策、矢木薫、朝比奈寛、勝間田嘉生である。後に続く後継者たちである。ちなみにこの時代からの聖泉関係の牧師たちは前記の小嶋彬夫夫妻、中野貞行夫妻が第1期生、中野直文が第17期生であり、後は“聖泉塾”やアメリカの神学校の出身者などである。

 (以下次号)

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