同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 成熟を目ざして進みなさい —

「この方について、私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です。あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。 ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。神がお許しになるならば、私たちはそうすべきです。」(ヘブル 5:11-6:3)

 冒頭に掲げたみことばを読んで、「耳が痛い」と感じる人はどなたでしょうか。きっと私たちの多くがそうであることでしょう。私たちのうちどれだけの人が「経験によって良い物と悪い物を見分ける感覚を訓練された人」でしょうか。
 この感覚の訓練は、書物などから得る知識によるのではなく、みことばに示されているとおり、経験によるのですから、その訓練の現場に遭遇しなければ得られないものです。しかも、その現場に入れられても、「導いてくださる方」・・一般の信徒は、神が直接お取り扱い下さり、教えて下さること以上に、牧師や真摯な信仰の道を先に歩んでいる親や兄姉を期待すべきですが
・・がいないと、訓練にならないことが多いのです。皆さんは、今、そのように導き、訓練をして下さる方をお持ちでしょうか。そういう人と信仰を共に歩んでいる方々は幸いです。しかし、そういう人がいない方々は、自分の信仰生活のあり方を考え直さなければなりません。それを、「私は教えを受けることができない信者になっていないだろうか」と自分を省みるところから始めるといいでしょう。
 訓練の場を考えましょう。「初歩の教え」とはどういうことでしょうか。それは「人は自分の行いによらず、イエス・キリストの贖いによって義とされる」ということです。それを「あとにする」とは、それを言わなくても「当然として、その中にしっかりと生きている」ことです。姦淫の現場で捕らえられた女は、いつまでも「わたしもあなたを罪しない」とのイエスのことばを繰り返しているだけでしょうか。多くの困難を乗り越え「行きなさい。いまからは決して罪を犯してはなりません。」とのイエスのみことばに生きたことでしょう。「罪を犯してはなりません。」というみことばに生きる中に訓練の場があります。

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