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ショートコラムねだ

— タイムマシンについて考える —

 未来に行ったり、過去に戻ったりするというSF・・サイエンティックフィクション、空想科学小説、科学に関わる虚構に基づく小説っといったところであろうか・・映画・ドラマが大流行である。
 このSF小説のはしりは、なんといっても、イギリスの小説家、コナン・ドイル(1859-1930)やH.G.ウェールズ(1866-1946)であろう。彼等の作品は、気楽な娯楽としての小説としてはなかなか面白い。子供の頃父の書棚にドイルの「恐竜の足音」というタイトルに翻訳された本(ロスト・ワールド)があった。南米の奥地に、外界から隔絶された地域があって、そこでは恐竜の時代がつづいていた・・という話であるが、面白くてしょうがなかった。ウェールズには月世界旅行、深海旅行、火星人(宇宙戦争)、透明人間、等々あって、いまなお同様の発想で次々と小説が書かれている。その一つに1895年に刊行された「タイムマシン」がある。 空間を移動するように、時間を移動できる、というのが根本発想である。少し前大ヒットした映画に、ベン・ハーで大スターとなったチャールトンヘストン主演の「猿の惑星」というのがあった。これも宇宙旅行で、はからずも時間移動をし、未来の地球にいった、ということを発想の発端としている。最近ケーブルテレビで流されている映画に、コンピューターに支配される世界が到来するので、過去に戻って歴史を変え、それを阻止しようとする・・するとコンピュータの側もその行動を阻止するための殺人マシン・・ターミネータ・・を送り込む、というのがある。第一作のターミネータ役は、現カリフォルニア州知事のシュワルツェネッガーであった。
 さて前置きが長くなったが、今回はその時間移動について考察しよう。
 この発想の原点に、過去、現在、未来に至る時間軸方向の世界が連続して存在するということがある。それがフィクション、虚構の中心である。せっかくの小説の楽しみを壊して申し訳ないが、世界は現在しか存在しない。相対性理論などというものの中に、あたかも時間移動が出来るかのごとき計算結果が現れるが、それは計算上存在するだけであって、数学の虚数の領域、鏡の向こう側に見える世界の領域である。
 百歩譲って、未来が決まっていると発想しよう。するとどうなるか。私たちの人生は録画放送のようなものだということになる。だからそれをもう一度否定せざるをえない。諸君、未来は決まっていませんぞ。あなたが右を選ぶか左を選ぶかで決まるのである。神はこう言われた。「私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。」(申命記 30:19)

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