同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 万人祭司・万人予言者・万人王(第55回) —

野澤 睦雄

・・クリスチャンはみな預言者である。みな祭司である。また王である。キリストにあって、神は私たちを一体とし、そして王位に着けられた。
・・ C.E.ジェファソン(「教会の建設」から引用)

3. 新約における三つの職務の考察(つづき)

 聖霊がおいでになって、教会が成立した当初から今に至るまで、教会の営みの中心に説教がありました。説教が単に物事・・それはキリスト教に関する事かも知れませんが・・を教えて知識を増やす働きしかせず、集会に出席した罪人に認罪をあたえ、十字架に救いがあることを悟らせ、悔い改めと新生の命を与える、救われている信者の心と生活を整え、キリスト者に相応しい姿、品性の所有者に変貌させる、そのような働きができなかったら、それこそその説教者と教会は「塩気を失った塩」です。
頭だけ大人のように大きく、体は嬰児で何もできない、そういう姿のキリスト者を想像してみてください。教えることが知識だけであるとそういうことになります。これは、何回でとか何年でとかでその働きができる、といっているのではありません。そのような、働きの要素、力があるか否かをいっているのです。そこに権威の働きがあります。説教者と聴衆がいのちのある説教を介して火花を散らす、それは楽しいことではないでしょうか。説教から権威を除いたら、信仰書を読ませておいたり、どなたかの説教テープでも聴かせておくのと何の変わりもありません。牧師が努力しなければならないことは、自らも知識ではなく、いかにしてこの権威を行使できるものになるかなのです。先に述べましたように、権威の証書はもう貰っているのです。だがそれを用いることができない、それが実態だからです。
 この権威の問題は、説教以外の具体的な事柄に対する指導の段階でも起きてきます。一例ですが、私と妻の間には調整しなければならない課題がたくさんありました。お互いに相手の言い分をどうしても受け入れることができない事態になると、牧師のところにいって相談するのが常でした。私が言っても承知できないことであっても、牧師がそうしなさいと言えば、妻はそれを承知できるのでした。信者の信仰を建てあげるのに当たって必要な牧師の権威がここにあります。そのような権威を持たずに、信者の信仰を建てあげることは困難です。信者の側でも牧師の権威を認めてその指導を受け入れなかったなら、恵みを失うことになります。
 夫婦間の問題だけでなく、兄弟とのあいだにも同様のことがあります。私はある兄弟に、「あなたはこのことをこのようにしているけれども、こう変えた方がいいですよ」、と勧めた問題がありましたが、その兄弟は私の意見どおりに行わなければならないとは思えなかったと見えて、彼は私の勧めを実行しませんでした。しかし、私はその兄弟と牧師、婦人伝道師である教会の働き人との関係をよく知っています。もし、教会の働き人のどなたかが同じことを彼に勧めたのでしたら、彼は間違いなくその通りに実行したでしょう。具体的内容はさておき、ここにも牧師の権威の問題があります。
 牧師が信徒をキリスト者に相応しく整えていくために、権威はいかに大切なことか分かります。このような問題に対する権威も決して何もしないで牧師のものになったのではありません。先に述べた私の妻は、他の教会から結婚を通して私のところに来たのであって、自分にとって牧師をそのような位置に置くことは理解しておりませんでした。ですからそれを理解できるようになるには、激しい戦いがありました。「説明して分からせてください。分かったらそのようにします。」これが彼女が私に対して主張した内容でした。そういう順序ではなく「分かっても分からなくても、私の言うとおりにしなさい」、これが私が彼女に要求した内容でした。ですから、主張がすれ違って大変でした。長い期間を要しましたが、彼女は折れることができ、私の言うとおりにしたとき、それを理解できました。
 この牧師の権威の問題は、牧師が神の人であって、ひたすら神に仕える無私の人であることを前提としています。牧師が私欲に仕える人物であったら、これらの議論はすべて崩壊してしまいます。
 「うちの教会の先生は神の人である」と納得できる牧師を迎えている教会の信徒は幸いです。
 潔め派の皆さんのために付け加えておきたいことですが、潔めの経験はあらゆる事態に対処しえてそれを成功させるものであると教えるリーダーの先生がいました。恐らく今もそのように考える方々もおられることでしょう。しかし、潔めの経験とそれに生きていることは、前述のように、神の人であり、無私の人、ひたすら神に仕える人であるという、神の働き人が備えていなければならない資質を得たということであって、そこからさらに物事に対処する権威、見識や技量を身につけていく戦いがあるのです。これは瞬時に身につくものではありません。さらに適切な判断を下すためには、問題となっている事柄に対するこの世の知識、見識も持っており、その上に神の業としての洞察が出来なければなりませんから、それらを身につけることは大変です。教会員はひとりひとり皆違っていて、決して一律にことが動くわけではありません。一人ひとりとそれぞれ違った権威の確立のための努力が必要です。バウンズは祈りによる力の中で、説教者を造るには20年かかりますといいましたが、至言です。それでも確かに教会には風土があって、その風土は信徒が牧師にどのように相対するかに大きく影響を与えるものです。兄弟が影響し合うのです。

(以下次号)
(仙台聖泉キリスト教会員)

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