同労者

キリスト教—信徒の志す—

人物伝

- 山本岩次郎牧師の思い出(9) -

秋山 光雄

第2部  荒川教会週報抜粋集(つづき)

【1953(昭和28)年11月15日】

 我身になされし御業(聖潔のあかし)その1
 昭和2年11月20日(日)夜は救ひの恵にあづかった日であるが、それより丁度7年後の9年11月11日(日)夜は聖潔の恵にあづかった尊い記念の日である。
 昭和8年は其所属せる教団の分裂事件のあった年でその夏より信仰に対する強烈な試練が始まった。所は北海道の今の北見市である。教会は全く閉鎖の状態、本部より送られるわづかのもので4人家族が生活しなければならなくなり、ほとんどきが状態の生活であり遂に1週間の余ぎなき断食生活をしなければならなくなった。思想的、経済的問題等による試練の嵐は其信仰を根底からくつがえさんとして迫って来た。入信7年、聖書は真神の言なりや、聖書の教える神はまことに存在するや否や、其神はまことに愛なる神なりや等、既に説教者として奉仕して来た者であったが今や露骨に震われる時となった。『己れに根なければしばし耐ふるのみにて御言のためにかん難あるひは迫害の起こるときは直ちにつまづく者なり』太(マタイ)13の21はそのまま之を表はす言であった。然し静まって反省せしめられる時兎に角、救はれし恵を疑うことが出来ない。
 そうした試練は相当期間、続いたが遂に11月11日の日がやって来た。聖日ではあるが余程前より集会は中止、自らが疑問になって居る事を人に語る事はとても出来ない。特に夜は教会の入口にいつも鍵をかけて居た。丁度その日も礼拝をせず考え込んだ疲れた頭脳を医すべく独り散歩に出たのであった。午後3時頃かと思ふが帰宅すると数え年3才の長女がほうたいをして寝て居るのに非常な驚きを憶えたので言葉を荒々しく尋ねた。(つづく)                       

【1953(昭和28)年11月22日】

 我身になされし御業(聖潔のあかし)その2
  妻の報告の中に一言の謝罪的なものなくまたその態度を見る事が出来ない。怒りはばく発した、と云っても口論するでもなく、たたいた譯(わけ)でもなかったが心の中の怒りは押える事は出来ない危険を感じ8時頃から床に入った。それが端緒となり次から次と今までの妻に対する不満、彼の罪を数えあげたのであった。すなわち憐憫の心、愛の心を失って仕舞ったのであった。
 何時頃まで続いたであろうか疲れてねむって仕舞ったと云う状態であったであろう。旧き罪が全き潔めを受けなければいつ何処でばく発するか判らない。斯る魂は不安である。目覚めたのが丁度11時頃、不思議に神の臨在を感じた『お前が妻の中に数え挙げた罪はそのままお前の罪である』明らかに指摘されたのである。『己がさばくさばきにてさばかる』此処に己が罪が神の光の中にさばかれたのである。其前には弁解の余地はない。この罪の故に亡びる自分を見出さしめられた。『嗚呼(ああ)禍ひなるかな我ほろびなん』声を発する事も出来ない。勿論妻も既に寝に就いていた。非常なもだえが始まった。床のまま暗黒のふかみに陥入らんとする。自らの前に之を救ふ何物もない。又他の何物もない、哲学も勿論斯(かか)る罪より我を解放する事は出来ない。ほんの一瞬時の事であったが、そうした絶望の底に陥らんとする状態の時、眼前に明かに示されたのは十字架であった。
『汝を救ふ者は之以外にない』アーメンと受入れた時、ハレルヤ凡ての恐怖は終わって神よりの平安が魂を占領した。まっくらな部屋が表現しようのない明るさに満たされた様に感ぜられた。感謝とさんび(ただし歌ったのではない)が溢れるのを禁ずる事が出来ない。翌朝直ちに妻の前にひざまずいて今までの不徳を詫び之からは新しい時代が当来する事を告げ感謝の祈りを捧げた。栄光は勿論三一の神のものである。
 以後容易ならぬ試練は続いたが自らが変質したと云う事を知らず今日まで生涯の一切の根底はこの時に与えられたのである事を一瞬もうたがったことはない。ハレルヤ

【1954(昭和29)年3月28日】 例会の奨励

 徒19の1-17朗読
 パウロがエペソに伝道の為に到着するや既に主の弟子に加わって居た人々に最初の問は2節に在る『なんじら信者となりし時、聖霊を受けしや』であった。我らの伝道も之に学ばねばならぬ。イエスのキリストたる事を弁えぬ人々には『罪の悔改め』を説かねばならぬが既に罪の悔改めを為し救はれて神の子とせられた者に教ふべきは此聖霊を受けしやに就いてである。水のバプテスマは悔改めのバプテスマと云われ次のバプテスマは『聖霊と火』によるバプテスマと云われる(太(マタイ)3の11以下)。水は洗ひに聖霊は潔めに関係し水は外部のそれを意味し聖霊と火は内部のそれを意味している。エペソの信者は未だ此恵を知らなかった。聖霊と火による潔めの恵は既に悔改めた神の子にのみ与えられるべく約束された恵で主の十字架に釘けられる前夜ユダの退場後教えられたもので更に主を愛し主の為に生きん事を願っている主の弟子の必ず受くべき恵である。
 是は我らの内側に在る罪を全く除去して神の性質を与える処のものである。聖書と我等の経験は救はれた神の子等の内に尚未だ罪の在る事を知る。然ど聖霊と火による潔めは徹底的に我らから之を除き之に聖霊を与えて福音の能力ある証人たらんとし給ふ。己が弱きを嘆かず此事の知識と体験者となれ。徒1の8

 (以下次号)

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