同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 聖潔を再考する —

「神は聖徒たちに、この奥義が・・どのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」
(コロサイ 1:27)

 山本岩次郎牧師の伝記にご本人の聖潔の証詞が載せられましたので、この機会にもう一度聖潔について考えましょう。
 この聖潔については、ジョン・ウェスレイが中心人物であることは論を待ちません。彼自身その経験に達している他の人物に聞いて、そのような恵みがあることを知ったのですから、彼が最初の人という訳ではありません。しかし、彼がそれを明確にし、多くの人をその経験に導きました。神は長く続くリバイバルによって、彼の信仰とその教えが神のご承認のものであることを示されました。ウェスレーはこの経験をキリスト者の完全と呼びましたが、彼に続く人々によって、聖潔、きよめ、ホーリネス、聖化、全き愛、第二の転機、聖霊の満し、自我の死等々多くの表現がなされました。これらの表現は、同一の経験の持っている要素の各方面を強調して表しているのであって、これら凡ての要素を含んだ経験であるのです。 その概要は「悔い改めと救いの経験、新生の恵に与ったことが確かなキリスト者が、その後真摯な信仰生活を続けるならば、霊的な前進、成長が続く。それは小さな進歩の積み重ねである。やがて、その人は大きな飛躍の一瞬を迎える。その飛躍には新生の時に与えられるものに遙かに勝る聖霊の満たしをともなう。その後また小さな前進、成長が続く」というものです。 ウェスレーはその大きな飛躍を、キリスト者の完全と呼び、その経験の後キリスト者の完全の中で信仰生活を続ける、と理解しました。彼は、そのキリスト者の信仰が聖書に立脚した、理性的なものでなければならないこと、その経験の前も後も真摯な信仰がなければならないことを強調しました。彼のいう「完全」は、神に対する完全な従順と献身、つまり己の権威に生きることをやめ、凡てを神の権威の下に服すことが基本であって、すべての行為の動機が愛からでたものとなることに尽きます。彼は罪と過失を区別し、罪からは解放されるが、過失からは解放されない、動機が愛である限り神はそれを許容されるが、その過失もすべて、キリストの贖いを要するとします。 その経験の現れ方は、ひとりひとり異なって、あるものは劇的な変化を体験し、またあるものは本人すらそれに気づかないほど静かに経験します。
 これは、罪人に対する罪からの解放の道として十字架のもとに罪の赦しと新生の恵みがあるのと同様に、潔く生きたいのにそのよう生きられないと悩むキリスト者に対する十字架による解放の道なのです。
 もし皆さんが死ぬまで罪を犯しては悔い改め続ける人生、自分の欲に仕える人生ではなく、罪を離れて潔く生きたいと願われるならこれは避けて通れないテーマです。

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