同労者

キリスト教—信徒の志す—

随想

— 佐渡島の「キリシタン塚」に想う —

鎌田 新

 この夏休み、かねてより訪れたく願っていた佐渡島へ向かった。新潟港からフェリーで2時間半、二等室の船旅はお盆前とあって、思い思いに陣取る帰省客で混み合っていた。デッキに出てみると、カモメの群れが、船から放られるかっぱえびせんを空中でナイスキャッチしながら、延々と追いかけてくる。
 両津港に到着し改札を出ると、両側がお土産店になっていて、まるで上野のアメ横のような大賑わいである。なんとかレンタカーを借りて、予約していた姫津港にある、すだれ荘という民宿へカーナビ頼りに向かう途中、「キリシタン塚」と書いた小さな看板を横目に通り過ぎた。しばらくボーッと走りながら、立ち寄るべきか、またはそのまま行き過ぎるべきか、心中迷っていた。ただこうゆう場合、後回しにすると、機会を逸する可能性があるので、私はいつも首を突っ込む癖がある。そう、ここがこれから先の人生の分かれ道かもしれないのだ。
 そこで徐(おもむろ)にUターンして細い坂を登って行くと間も無く、ジャリ道の三叉路に突き当たった。真っ直ぐ行けば山奥へ、右手に行くと旧代官屋敷、左手が「キリシタン塚」と矢印があったので見ると、あまりにも細く急な坂なので目を疑った。非力な軽自動車を操り、崩れた側溝に落ちて車ごとひっくり返えりそうになりながら、凸凹のオフロードを800m 程、えんやこら登って行くと、思い掛けなく整備された小さな庭園が現れた。どうやらここらしい。
 佐渡は近年、旧金銀山や産業遺産群、かの有名なドラマ「君の名は」の舞台となった尖閣湾のジオパークなどを中心に世界遺産登録を目指しているそうだが、こんな峠の片隅にひっそりと眠れるキリシタン塚なぞ、さほど顧みられてはいないらしい。そこは旧中山峠の中腹に位置し、江戸時代初期、「島原の乱」などの反乱が起こった事も影響したのだろう、幕府による迫害で100人以上の「踏み絵」を踏むことを拒否、もしくは躊躇した佐渡在住のキリシタンが、見破られ斬首された場所であり、昔から「百人塚」と呼ばれて来た。後年カソリック教会がこの土地を買い取り、現在その一部は墓地としても使われている。計らずも訪れることになったこれら信仰のために死を選んだ人々の最期の地に佇む時、自らの命さえも賭けて踏み絵を踏まなかった、その純粋な神への思いに、我々は今日改めて自らの信仰を吟味せざるを得ないだろう。
先の戦争から今年の夏で70年を経たが、我々後輩キリシタンの目の前に置かれている現代版の「踏み絵」があるとすれば、それは何であろうか?私は 踏み絵を踏まないで生きているだろうか?否、踏み絵を踏んでおきながら、「そんなことは、私の信仰とは関係ない」と、うそぶくクリスチャンには、なりたくないものである。

(夜越山祈りの家キリスト教会 牧師)