同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 結実の考察(第20回) —

野澤 睦雄

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため・・です。」
(ヨハネ 3:16)
「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」
(ヨハネ 15:8)

<4.聖書の示す人間観>

 聖書の示す人間観のテーマとして次の項目を取り上げて検討しています。

 ・人間創造の目的
 ・人間の構造
 ・人霊とその機能
 ・魂とその機能
 ・良心について
 ・体とその機能
 ・欲求について
 ・肉という表現について
 ・人の誕生
 ・罪と罪の性質について
 ・罪の性質の遺伝
 ・自我の死は存在するか?
 ・地上生涯の価値
 ・いかにして己を知るか

 今回はその中の、
・体とその機能
・欲求について
・肉という表現について
の3項目を取り上げます。
テキスト本文を引用することにします。

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6.体とその機能
 体は人間の物質部分、自然界に属する部分であって、今の世界において、人が他に働きかける、あるいは他から受けとるすべてのことは、肉体を通して行われます。キリスト教とは関係ない人の言葉ですが、「健全な精神は健全な肉体に宿る。」のも真実です。また「魂(心)の健康」は更に大切です。
 健全な知覚、健全な思考、健全な肉体の欲求、健全な情緒、健全な良心、健全な意志決定、人はこれらに支えられて健全な行動をとります。
 キリスト教の世界で、ある人々の間では「肉体は罪である」、「肉体の欲求は罪である」、「肉体の欲求を満たすことは罪である」と言うような議論がなされてきました。しかし、信仰が霊の意志決定にあるように、罪も霊の意志決定にあります。詳しくは次章「救いの経綸」の中で考察しますが、このことは、肉体自体は罪でもなければ、罪を犯させるものでもないことを示しています。もしも肉体が罪の原因であったなら、サタンと悪霊達が罪の存在ではあり得ません。なぜなら彼らは肉体を持っていないからです。
 一方、「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとして下さいますように。…あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」(テサロニケⅠ五の二三)の言い方には、霊だけでなく、魂も体も聖くされるというニュアンスがあります。魂が聖くされることについては異論がでないでしょうが、体が聖くされるということには、すこし考察が必要です。この意味するところは、霊が潔くされ、潔い心情、潔い思考、潔い行動、慎み深い生活、等々をもって聖徒にふさわしい生き方をすることです。逆に、これを「潔い」を「汚れた」と言う言葉に置き換えた生き方から離れていることに他なりません。またサタンや悪霊達、悪人の手や世の力から守られることでもあります。

7.欲求について
 本書では「欲」と自然な「欲求」という用語とを区別して使用することにします。
 体に付随する自然な欲求は、体に必要なものを取り入れること、体に不要となったものを排出すること、運動、休養や睡眠、性などに関連して存在します。
 食物、水、空気(酸素)、これが人間の体を支えるために外部から体に取り入れられるものであって、食べること、飲むこと、呼吸することによってそれが行われますが、空腹、渇きによってそれが続けられます。呼吸は健康な人にはあまり意識されませんが、心臓の悪い人が、血液の循環の不足からか、深呼吸したくなるという事例があります。しかし、ここでは呼吸について議論しないでもよいでしょう。食べること、飲むことに対する欲求が満たされないと、空腹と渇きという結果が現わされ、その欲求が強く意識されることになります。
 同様に魂(心)の欲求と霊の欲求がありますが、これらの欲求は、明確に区分できません。
 欲求というものは、本来神から与えられている人間の機能であって、行動の動機となり、神が祝福されたものです。欲求を正しく用いて神の下さるものを感謝することができることは、聖潔の生涯に欠かせないことがらです。他の人々との交わり、遊び、食事、夫婦生活などなど様々な場面でそれが許されています。
 これらの欲求のうち、以下は特に「欲」と呼んで区別します。すなわち「食欲」、「性欲」、「交際欲」、「知識欲」などがそれです。中には睡眠まで欲に入れる人もいますが、睡眠は体と魂の休み時間であって、必要とする時間の間隔は違いますが、呼吸と同様人間が制御できる幅が狭いものです。ですから睡眠は欲という分類には入れない方がよいと思います。目覚めていても、布団から出てこないのは睡眠ではなく怠惰です。
 食欲を個体維持本能と呼び、性欲を種族維持本能と呼ぶことがありますが、人間の欲というものをよく観察してみますと、食欲には個体維持という表現で顕わされていること以上のものがあり、性欲には種族維持と表現できるものよりもっと奥深いものがあるように感じられます。性は雅歌に歌い上げられている夫婦の愛を造りだす場を提供するものです。それらは単に体に付属した欲求であるとは言い切れません。交際欲や知識欲もスキンシップという表現があるように、単純に魂(心)の領域のことであるとは決めつけられません。これらの欲求は、体から出てくるものか、魂からでてくるものか、霊からでてくるものかはっきりしません。人間はいかにこの三つのもの、霊、魂(心)、体がひとつの統一された有機体となっているか分かります。
 霊と魂(心)の領域の欲求と欲には更に別の領域があります。即ち、権力欲、名誉欲、金銭(蓄財、富)欲…などです。これらは、それを持っていると危ない領域の欲です。もしダビデが権力を持っていなかったなら、彼は罪を犯さなかったでしょう。名誉についていうならば、パウロという人物がいかに誇り高い人であったかは、異論がないでしょう。しかし、神はパウロには特別に彼の「肉体にひとつのとげ」(2コリント12:7)を与えて彼がつまずかないよう配慮されました。また富を持つことも神は祝福としてアブラハムやヨブやソロモンに富を与えられました。富はそれを正しく用いることが出来る人にはつまずきになりません。しかし、これらが危ない領域であることは、誇りを正しく持ち、富を正しく持つことが普通の人にはいかに難しいかを示しています。
 欲求は、罪の入り口になりました。「そこで、女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。」(創世記3:6)ですから、誘惑の入り口にもなりやすいのです。ひとたび聖潔を与えられた人も、欲求を正しく用いることに絶えず心がけることが必要です。

8.肉という表現について
 肉という表現は、肉体を連想しますが、そうではありません。「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。」(ローマ8:5)「あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、…」(ガラテヤ5:13)「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(ガラテヤ5:16)以上の三聖句は、肉と御霊の対立が、思考、意志、感情(ここでは喜び)に及び、単に肉体から出てくる欲求などに関することではないことを示しています。
 パウロが、ローマ人への手紙に書いた内容のその思想の流れをみるとき、「…古い人…」(ローマ6:6)「…私たちが肉にあったとき…」(ローマ7:5)「…私のうちに住みついている罪…」(ローマ7:17)「私の肉のうちに善が住んでいない…」(ローマ7:18)と表現されていることが、同一の母体を指していることが分かります。すなわち御霊と対立する「肉」とは、私たちの母親から生まれたままの古い人格に付属する罪の性質そのものなのです。
 この肉は救われた人のうちにも残っています。それが聖潔を必要とする理由なのです。
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 ここに論じているのは、霊の世界すなわち神の世界のことです。その視点に立って、「聖書の示す人間観」を考えているのです。本文に書かれたあるとおり、神と人間あるいは人間どうしの交わりも、罪を犯すことも、神に罪を赦されて救われることも、これらの霊に属するすべての事柄が、肉体を通してなされます。その意味で肉体はきわめて重要です。

 欲と欲求について、キリスト教の世界で古くから多くの誤った見解がありましたし、今もあります。健全なキリスト教を身につけているために、私たちはこのことに関する正しい見解を持ち、それが悟りとなって、自分の遭遇する生活の場面の中で、正しい対応が自然にできるものとなることを求められています。

 「肉」ということばには、更に多くの誤った見解があります。
肉は肉体に関することではなく、罪の性質そのものを指しています。それこそが、取り上げている「聖潔」によって解決される問題点なのです。

(仙台聖泉キリスト教会員)