同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 神に近づく(7) —

「キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」
私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。 また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。」
(Ⅱペテロ 1:17-19)

 ペテロがここに述べているのは、イエスの変貌山のできごととして知られている記事です。イエスは、12弟子たちの中からペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけを連れてそこに行かれました。この3人はイエスの変貌・・光り輝く姿に変わられたこと、モーセとエリヤが来てイエスと語り合われたことを見せられました。(マタイ17章他)そして、3人の弟子たちは「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」(マタイ17:5)という声を聞きました。「彼(イエス)の言うことを聞きなさい。」という命令のことばですから、当然父なる神は3人の弟子たちにむけて語られたのです。
 神は今も必要があれば、直接私たちに語って下さるお方です。
それだけでなく、神はご自身との交わりを持つために人間を創造されたことは明らかです。交わりはことば・・会話をすることによって成り立ちます。エノクは神と共に歩んだのですが、神と共に歩んだのに会話をしなかったなどとは考えられません。私たちも神に近づき、神と共に歩むとき、神と語る幸いを与えられるでしょう。
「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」(黙示3:22)

 冒頭のみことばにペテロは、自分は神のことばを聞いたが、さらに確かな預言のみことばを持っていると付け加えています。
ここに預言といっているのは、聖書であることを後続の文のなかで解説しています。ですから「暗い所を照らすともしびとして、聖書に目を留めているとよいのです。」
ということが彼の勧めです。

 筆者は以前この同じコラムで「みこばへの情熱」というタイトルで、長く読みつづけた聖書通読のことを証しました。聖書に夢中になった理由は、聖書のことばで救いに導かれ、聖書は真に神のことばだと悟ったからでした。
 救われてちょうど2年後に出会った一文によって、いっそう聖書に夢中になりました。その文の一部をここに紹介しましょう。
・・・
わたしはひとつのことを・・・すなわち天国への道を知りたいと切に願う。どのようにしたらその幸福の岸辺に安着できるのであろうか。神はこの道を教えるために自らを低くし給うた。実にこの目的のために天より降り給うた。神はそれを一冊の本に書きつけ給うた。
ああ、わたしにその本を与えよ。いかなる価をもってでも神のその本を手に入れたい。
 わたしは今、それをもっている。
ここにこそ、わたしにとって十分な知識がある。わたしをして<一書の人>たらしめよ。
 ひとびとの喧噪の巷から遠く離れて、今わたしはここにいる。ひとりで座っている。ただ神のみここにいまし給う。そのみ前でわたしは神の本を開き、読む。天国への道を見い出すというほかならぬこの目的のために。
 わたしがそこで読んでいる事柄の意味するものについて、少しでも疑問の点がおこったらどうするか。何か曖昧に、複雑怪奇に思われたらどうするか。光の父にいます御方へと、わたしは心を向ける。「『知恵に不足している者があれば、神に願い求めよ』とは、主よ、あなたの御言葉ではありませんか。あなたは、『とがめもせずに、惜しみなく与えて』下さいます。あなたは言われました『みこころを行おうと思う者であればわかるであろう』と。わたしは行いたいのです。あなたのみこころをわからせてください」。
 そこでわたしは、「霊のことは霊のことによって照らしつつ」聖書の並行記事を探し求めて、考える。そして全注意力を集中し、私の精神のなし得るかぎりの熱意を傾けてその聖言について思い巡らす。
 それでもなお、疑問の余地の残る時は、神のことがらに経験のある人たちに相談する。すると、そうすることによって、聖書は過去のものではあるのに今なお語るのである。・・・
・・・・
ジョン・ウェスレー、「説教集序文」
(野呂芳雄編、「ウェスレーの神学」、新教出版社、昭和38、p.25)、から

 それで、筆者も<一書の人>を目指して聖書を読み、今に至っています。
本当に聖書は真理の基準でありました。

 神の声を聞く、確かな道がここにあります。