同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— 聖書研究会の担当者をさせていただいて —

森田 心

 「私たちの手をも心をも 天におられる神に向けて上げよう。」
(哀歌3:41)

 私どもの教会では、月に1度聖書研究会が行われ、その担当者の一人として責務に立ってきました。その初めは牧師より“聖書研究会、1回やってみませんか”というお話がありました。なぜ・・私が?という不思議と、すぐに不安な気持ちが起こったのをおぼえています。しかし嬉しさが大きく、引き受けさせていただき、その時関心のあった「私の神。どうか私を覚えて、いつくしんで下さい。」と神への切なる求めをなしたネヘミヤについて学びはじめました。
 準備を進めていくうちに、到底1回ではまとめることが出来ず、牧師に数回取り組まさせていただきたいと願い出ました。その答えに、翌年から「正式にこの担当者として続けて行ってください」と言われました。
 30代半ばの私は、仕事に夢中になり、両足をそこにどっぷりと漬け、がむしゃらに走り続けていた者でした。偏りが大きく欠けの多いもので更に聖書の知識にも乏しく、実際その任に相応しいものではありませんでした。多くの方は、仕事や学業、家庭の働きを終えて平日の夜の聖書研究会に集まってきます。その聖別された時間を、どのように学びをしていけば良いかを考えました。自らが学んだ所から示されたこと、どう捉え、感じたか、踏み出すべきかを表すようにしました。毎回不十分の連続でした。一つの学びの発表を終え、ほっとすると次の学びの始まりでした。私の足らなさ、弱さ、傾向性を矯正され、聖書の大きな力の中に生きることを、この責任の中で与えられてきました。心から感謝をしています。
 5年前からイエス・キリストのご生涯の学びを進めてきました。私の息子達を含め、若い兄弟姉妹がキリストを見上げ、その尊き血潮の贖いを信じ受け入れることが出来ることを願いこの学びが生かされることを信じ取り組んできました。発表がどれだけ解り易く、皆さんに届くことが出来るかではなく、キリストご自身の生きた言葉は確かに魂を捕らえていのちの道へ進ませて下さることを信じ立ち続けました。
 今、もう一度立ち止まって、あの初めの時を思い返してみると、牧師はよく私に声をかけて下さったと思います。1回の担当のはずが、しかし、足らなき者も信頼し続けてこうして用い続けて下さいました。
感謝します。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)