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キリスト教—信徒の志す—

信仰良書

神への道 (86) —目の前が暗闇のとき—

D.L.ムーディー 著 山田 大 訳

 ちょうど紅海へ差し掛かった時のイスラエル人のように、いかにしばしば私たちは、自分の前や後ろ、そして周りのもの全てが暗く見えて、どちらに向って行ったら良いかわからなくなり、落胆させられることでしょう。ペテロのように私たちも「私たちがだれのところに行きましょう」と言いました。すると神は私たちを開放するために現れてくださいました。主は私たちを連れてまっすぐに紅海を渡り、荒野を越えさせ、約束の地への道を開いてくださいました。しかしキリストは私たちを開放する方であるだけでなく、贖う方でもあられます。それは私たちの救い主であられる以上の意味があります。主は私たちを買い戻してくださいました。「あなたがたは、ただで売られた。だから、金を払わずに買い戻される。」(イザヤ 52:3)。「贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、」(ペテロ第一の手紙 1:18)。もし黄金で私たちを贖うことが出来るのだったら、主は無数の黄金の世界をお造りになれなかったでしょうか。
 神がイスラエル人をエジプトのくびきから贖い出し、紅海を渡らせた時、イスラエル人は荒野へ向って歩き始めました。それで神は民のために彼らの道となられました。私は主が私たちを暗闇に放っておかれたことなど無く、正しい道へと導いてくださったことに感謝しています。真のいのちある人で道が分からずに闇の中を手探りし続けている人はいません。キリストは「わたしが道・・・なのです」と言われました。もし私たちがキリストに従うなら、私たちは正しい道を歩み、正しい教えを持っています。誰が全能の神ご自身のようにイスラエル人を荒野で導くことが出来たでしょうか。主は行く先の落とし穴や危険を知っておられて、民を荒野の旅全行程を通して約束の地への正しい道へと導かれました。もしあの忌まわしい不信仰がなかったら、確かに彼らはカデシュ・バルネアからカナンの地へ入って行き、そこを占領することが出来たでしょう。しかし彼らは神のことば以外のものを求めたので、後戻りさせられ、40年の間荒野をさまよわなければならなかったのです。
 今でも荒野をさまよっている多くの神の子どもたちがいることでしょう。もし彼らがただ喜んでキリストに従おうとしさえすれば、主は彼らをエジプトの手から救い出し、直ちに荒野を通り抜けて約束の地へと導き入れてくださったでしょうに。キリストはこの地上に来られ、荒れ地を平らに、暗闇を光に、曲がった道を真っ直ぐになさいました。もし私たちがただ主に導かれようとし、主に従おうとしさえすれば、全ては平和と喜びと安息になるのです。
(訳者:仙台聖泉キリスト教会 会員)

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