同労者

キリスト教—信徒の志す—

講演

— こころの律法(おきて) —

鈴木 健一


註:本講演は、昨(2008)年10月19日に、インマヌエル大宮教会で開催された、「秋の特別講演会」でなされたもので、以下の構成となっています。前号(113号)に1から3まで掲載しました。本号に、4以下を掲載しますので、両方をあわせてお読みいただきたいと思います。
          教育講演「心の律法(おきて)」 
あいさつ:「教育」からキリスト教を見る
1 理解できないことが起こり始めている不安
2 教師と教師との対話
 (1)教育は人間をどう見るかによってきまる
 (2)イスラエルにて・・・律法教育
3 心の中から律法がなくなっていく
 (1)盗んではならない
 (2)姦淫してはならない
 (3)殺してはならない
 (4)アノミー
4 律法の意味
5 ニコデモはなぜイエス様のところを訪ねたのか
6 イエス様の答え


4 律法の意味
 さて今日は、律法を熱心に教育するイスラエルのことと、律法がなくなっていく日本の子どもたちのことをお話しました。これは人間にとって律法というものがどんなものかということを分かりやすくするためにしたことで、日本よりもイスラエルの方が優れているという議論をするためではありません。
 たとえば、私たちの国にも、律法の回復が見られます。毒入りの餃子が国際的な問題となり、今回はまた汚染米が問題になりました。ここ十数年間同じような事件が繰り返され、社会の目はとても厳しくなっています。心に律法のないもの同士では、社会が成り立ちません。イエス様は、この世の末についてお語りになったとき、「不法(アノミー)がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。」(マタイ 24:12)とおっしゃいました。このままでは日本の国は確実に亡びます。社会のほうでも本能的にそのことを怖れ、何とか秩序を立て直そうとしています。正義を大切にしなければ、という兆候が見られます。
 最近、イタリアのフィレンツェの教会(サンタ・マリヤ・デル・フィオーレ大聖堂)を見物に行った日本人旅行者が、壁にいたずら書きをしました。判明して、三人の学生が落書きをした大学は謝罪し、彼らを停学処分にしました。新婚旅行の際落書きをした教師は、野球部の顧問を辞めなければならなくなりました。それがイタリアに伝わった時、英語やイタリア語の落書きもいっぱいある。なぜ日本人だけがそこまでするのだ、という声がイタリア人から起こったそうです。しかし、割合多くの日本人は、若い人にそのように厳しくやって当然だとする風潮だと思われます。これも日本人の持っている正義の一つです。(昨日の夕刊には、三人の学生がこの夏休みにアルバイトをし、そのお金15万円を教会に送った。教会は感心して受け取ってくれた、と出ていました。)
 逆に、イスラエルにだって、盗みはあるし、性道徳の乱れはあります。何日目かの朝、運転手さんがしょんぼりとしていました。ガイドさんが言うことには、昨日この車に兵隊さんを乗せたそうです。兵隊なら、ただで乗せるのが運転手さんの方針でした。ところが、その兵隊さんを降ろした後、気がつくと運転手さんの財布がなくなっていました。運転手さんは嘆きました。兵隊がこんなことをするようでは、イスラエルは終わりだ、といいました。
 ですから、今日お話したいことは、では人間にとって律法とはどんな意味を持っているのかということです。人間にとって律法は欠くことができないのですが、しかし、完璧にそれを守れないのです。律法が心にはいりますと、自分が自分を裁きます。これは本当に人間らしい姿です。しかし、自分はどんなに悪い人間かと思うことはできますが、そこから抜け出すことはできません。表面だけ律法を守る偽善者が出てきます。
 イエス様がおられた当時のユダヤ人もそうでした。イエス様はそのような宗教の指導者を「白く塗った墓のようなもの」と非難されました。白く塗った墓は「外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱい」です。そのように、彼らは「外側は正しいと見えても、内側は偽善と不法(アノミー)でいっぱい」だ、といわれました。この喩えは強烈です。当時は土葬でしょうから、墓の内部で人が腐っていくのです。その穢れに目を背けたくなりますが、不法とはそんなにおぞましいものだ。そのように、イエス様の目には映っていたのです。これはまた、律法の教育というものの限界であります。一生懸命努力すればするほど、偽善者を作ってしまうのですから。
 かといって律法がない方がいいのだとすべてを取り去ってしまうと、大変なことになる。すでにお話しました通りです。ではどうすればよいのか。ニコデモがイエス様のところに行ったのは、このためだったのではないかと思うのです。

5 ニコデモはなぜイエス様のところを訪ねたのか
 人の心に律法が本当の意味で確立されるのは、人間同士の道徳のレベルだけではだめなのです。宗教のレベルが必要であります。そもそも十戒は、「神様」から与えられたものです。そして、聖書を知っても知らなくても、良心的に生きようと思えば私たちは、神様に直面しなければないません。
 2000年前のユダヤの国で、ニコデモという教師は、何を求めてイエス様のもとを訪ねたのでしょうか。国民の指導者であり、名高いベテランの教師であった彼が、こういうのです。
「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたのなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」
 しるしとは奇跡のことです。自分の常識では考えられたないすばらしいことが、このイエスという方によってなされている。これは普通のことではない。神がなされたことだ。この方は、神から遣わされた本物の教師だ。律法に忠実に生きたニコデモは、プライドを捨ててこう思うことができたのであります。
 ニコデモはベテランの教師でした。教えるべき聖書を隅から隅まで知っており、若者を知り尽くしている。この程度の能力なら、ここまではわかるであろう。それを可能にする教育のテクニックにも習熟し、自信がある。そこに生きがいを感じ、教育の仕事に誇りを持って、あるところまでやってきた。
 でも、そこからは何も本質的に新しいものは出てこなかったのです。彼の教育した若者は、本当に律法に生きる人になったでしょうか。律法を頭では知っても守らない者が多かったのではないでしょうか。それどころか、鼻持ちならない偽善者も生み出されました。
 彼ほど誠実な教師ならば、そのような現実が見えなかったはずはありません。彼はそこに気づき、自分自身に対しても不安を感じ始めていた。自分は律法的な生き方に全力を尽くして生きてきた。しかし、律法的な生き方だけでは、幸福にはならない。どこかに本当の生き方はないだろうか。ですからイエス様の姿を見て、あっ、と思ったのであります。

6 イエス様の答え
 ニコデモという人物が、教育を、また人生をこのようにみることができた、ということに、私は共鳴を覚えます。かれは年を取って人生もそろそろ終わりと思えるところでしたが、律法に真剣に生きようとしたゆえに、イエス様というお方に出会ったのであります。律法が救い主に導いたのです。
 神様と出会うということは、実は大変なことであります。私は、19歳の時教会に行き、ワー、こういう方がおられるのだ、と驚きました。全く想像もしなかった天地の創造者が、今ここに、この私の前にいらっしゃる。それだけではない。私に関心を持っておられる。それも非常に深い関心をもっていらっしゃる。こういう神様がおられたのだ。人生が、180度変わってしまった感動でした。
 ニコデモはそれまで教師として得たものをすべてつぎ込むかのように、イエス様に申し上げました。これは彼の祈りです。このような全力で、真剣に求める人を、イエス様は決して拒まれません。イエス様も真剣に答えてくださいます。
 「はっきり言っておく。人は新しく生まれなければ、神の国をみることはできない。」
 イエス様はここで、教師のニコデモが全く考えもしなかった世界を見せなさいました。今まであなたがやってきたこと、学んできたこと、貯えてきたことを認める。あなたは確かにイスラエルの教師である。しかし、それをいくら延長しても、神様の正義が支配する神の国は生まれない。正義の律法をいくら心に貯えても、新しく生まれ変わらなければ、律法は生かされない。神の国が、あなたの心の内に新しく始まらなければならない。そう、イエス様はおっしゃられたのであります。
 そしてイエス様がこのようにおっしゃる時、イエス様は評論家のように、ニコデモに告げたのではありません。ニコデモが新しく生まれるために、私は命を懸けよう。あなたのために、十字架にかかって死のう、とおっしゃっているのです。これが、キリスト教の神さまです。ここに私たちの人生の確かな基礎があり、教育の原点があるのであります。

 以上で、キリスト者である教師としての私のお話を終わらせていただきます。最後に、私たちが尊敬する、当教会の田中進先生に、まとめて頂きたいと思います。

(インマヌエル大宮教会 会員)

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