同労者

キリスト教—信徒の志す—

講演

— こころの律法(おきて) —

鈴木 健一


註:本講演は、昨(2008)年10月19日に、インマヌエル大宮教会で開催された、「秋の特別講演会」でなされたもので、以下の構成となっています。2回に分割して掲載いたしますので、次の号の記事とつづけてご覧いただきたいと思います。(編集委員)
          教育講演「心の律法(おきて)」 
あいさつ:「教育」からキリスト教を見る
1 理解できないことが起こり始めている不安
2 教師と教師との対話
 (1)教育は人間をどう見るかによってきまる
 (2)イスラエルにて・・・律法教育
3 心の中から律法がなくなっていく
 (1)盗んではならない
 (2)姦淫してはならない
 (3)殺してはならない
 (4)アノミー
4 律法の意味
5 ニコデモはなぜイエス様のところを訪ねたのか
6 イエス様の答え


「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。『先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。』イエスは答えて言われた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。・・・』」(ヨハネ 3:1~16)

あいさつ:「教育」からキリスト教を見る
 鈴木健一と申します。私は19歳の時このインマヌエル大宮キリスト教会で信仰を持ちました。それまで宗教というものを考えたことのない私は、教会に来て、「この宇宙を創られた神様がいらっしゃるのだ」ということを初めて知りました。現在68歳ですが、人生で最大の出来事でした。それ以降、救い主であられるイエス・キリストを信じ、あらゆることの背後に神様がいらっしゃるのだとう大前提で生きてまいりました。間もなく、信仰生活50年を迎えます。このような時、特別伝道会におきまして、私自身の人生の歩みを入れながらお話できますことを、まことにありがたいことと思っております。
 私は、26歳の時ミッション・スクールの伝統を持つ聖学院に就職しました。聖学院では、毎朝子どもたちとともに神様を礼拝して、一日を始めます。聖学院のスクール・モットーは、「神様を仰ぎ、人に仕う」ですが、これがその教育の原点であります。
 3年前、65歳で定年退職しましたので、キリスト教学校の教師という仕事を39年間経験したことになります。その内、33年間は東京の駒込にあります女子聖学院中学校高等学校で理科の教師として、また生活指導をしたり教頭をしたりして12歳から18歳までの女の子を相手にしました。その後その隣にある聖学院小学校の校長と聖学院幼稚園の園長をし、最後にさいたま市と上尾市の境にあります聖学院みどり幼稚園の園長も務めました。幼稚園には3歳から入ってきますので、3歳から18歳の子どもの教育に39年間携わり、子どもの成長を見てきたことになります。
 そこで本日は、キリスト教の信仰を、教育という面から、私なりに語らせていただきたいと願っております。

1 理解できないことが起こり始めている不安
 人間は誰でも赤ちゃんで生まれ、徐々に大人になっていきます。その途中、お父さんやお母さんや学校の先生が関わって、からだや心が育って自分で生きてゆける大人になるわけです。しかし、今の日本において、子どもが大人になるのが大変難しい。なかなか大人になれない。教育が難しくなっています。特に思春期を迎えた中学生や高校生が難しい。
 いつの時代にも思春期の子どもというものは扱いが難しいのですが、最近は子どもによる殺人といった異常な事態が起こっています。今年は川口で、中学三年生の女の子がお父さんを殺してしまいました。何年か前には長崎の佐世保で、小学校五年生の女の子が同級生を刺し殺しました。テレビや新聞で彼らの動機を理解しようとしても、皆さんもそうだと思うのですが、なんとも釈然としません。何かぞくっと、心が冷える思いです。その子たちの家庭がそれほど変わった家庭というわけでもない。ということは、日本中何処の家庭にも起こりかねない事件なのです。私たちの国に、何が起こり始めているのでしょうか。

2 教師と教師との対話
 (1)教育は人間をどう見るかによってきまる
 さて、先ほどお読みいただいた聖書の箇所は、イエス・キリストとニコデモの会話です。ニコデモはユダヤの国の指導者であり、年をとった有名な教師でした。そのニコデモが、今評判のイエス様のところに夜訊ねてきて、こういうのです。
「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。」教師であるニコデモが、教師であるイエス様のところに来た。ですからこの会談は、教師と教師の問答とみることができましょう。
 では二人は、何をめぐって話し合ったのでしょうか。一言でいえば、教育と宗教の関係についてです。そして、3節にはイエス様が「人は新しく生まれなければ」とおっしやり、4節にはニコデモが「人は、老年になって」と問いかけ、5節にはイエス様が「人は、水と霊によって生まれなければ」とお答えになっています。「人は」「人は」「人は」とありますように、教師である二人の問答は、人間とは何かをめぐってなされています。教育とは人間の教育であり、宗教も人間の宗教でありますから、人間とはどんな存在なのか、どう育ったら幸福なのかを、良くわきまえる必要があります。
(2)イスラエルにて・・・律法教育
 ユダヤでは教師といいますと、旧約聖書、特に律法の教師です。律法の中心はモーセの十戒です。その聖書を丸暗記するぐらい知っていて、徹底的に次の世代の若者に伝達するのです。この律法こそが、人の生きる道である。人間らしい人間を形成する、人間を幸福にすると信じているからです。
 もう三十年ぐらい前になりますが、友人と二人でイスラエルを旅行したことがあります。ご存知のように、イスラエルはユダヤ人の国です。聖書の舞台です。紀元70年にユダヤの国はローマ帝国に滅ぼされました。それ以降1900年近くを各地にさまよい、20世紀になって(1948年共和国)ふるさとの地に建国した不思議な民族です。彼らは聖書を離さず、子どもを聖書で教育したために、1900年もの間ユダヤ人としてのアイデンティティーを持ち続けることができた、と言われます。
 旅行は夏休みを利用し、自動車をチャーターして、日本人のガイドとユダヤ人の運転手を雇って、一週間イスラエル各地を回りました。運転手さんは熱心なユダヤ教の信者で、自動車の中にも旧約聖書がいつも置いてあり、実に良く知っていました。
 エルサレムの一日は安息日でした。安息日とは今の日曜日のようなものですが、ユダヤ人は律法に従って一切仕事をしないのです。車で通っていくと、隣のアラブの人たちの住んでいるところはにぎやかでしたが、ユダヤ人街はシーンとしています。それこそ犬一匹見えません。日がかんかん照りの道に、大小二つの人影が見えました。後姿でしたが、お父さんと息子なのでしょう。暑い最中をお父さんも息子も、黒のモーニングを着、山高帽子をかむって、「嘆きの壁」のほうに祈るために歩いていくのです。今でもその光景があざやかに浮かびます。世の中がどんな風に変わっても、頑として生き方を変えない。そして、その生き方を息子に身をもって教えている。私たちの国が、当の昔に失ってしまった親子の姿を見て、非常に感動しました。
 その後、車は死海に向かいました。途中、クムランの洞窟が見えるところで止まりました。有名なイザヤ書の紀元一世紀頃の写本が発見されたところです。暑い最中で、荒涼たる砂漠のような岩地には、私たちのほか誰もいません。洞窟を遠くから見上げて戻ってくると、自動車の脇に兵隊さんが二人自動車の中を覗き込むようにして、運転手さんと話しているようです。瞬間的に、あれ、駐車違反でおこられているのかな、と思いました。砂漠の中で駐車違反もないものですが、何か注意を受けているのかと気にしながら近づきますと、なんと運転手さんが聖書を読んであげているのです。若い兵隊さんは二人とも、鉄砲を立てて立ったまま、熱心に聴いているのです。たまたま会ったに過ぎない出会いで、聖書がこんな風に読まれているなんて、これまた、震えるような感動でした。私たちの国では、そんなに大切にしている言葉を持っているでしょうか。

3 心の中から律法がなくなっていく
 それどころか逆に、私たちの国は不幸な方向に突き進んでいるように思われます。若者の心から、人間にとってもっとも大切な言葉、律法(おきて)が失われつつあります。
 女子聖学院中学校高等学校に勤めた私は、1970年代の終わごろから80年代にかけて、生活指導を担当しました。自分の生徒だけではなく、東京中の中高生を観察するようになりました。ちょうどこの時代に、思春期を迎えた中高生たちが変貌を始めました。変貌と言っても必ずしも悪い変貌ばかりではありませんでしたが、問題点を抉り出すために極端に悪い方の例を取り上げて見ます。
(1)盗んではならない
 その頃から女の子の万引きが流行り始めました。男の子は、自転車盗です。万引きでつぶれた本屋さんが出たりして、社会問題となるほど多くなりまし。貧しいから盗むというケースはほとんどありません。目の前のほしいものがあるから、ちょっぴりスリルを味わいながら気軽に盗るのです。「遊び方非行」と呼ばれました。
 教師仲間で若者の原宿に見回りに行きました。竹の子族が流行り始めた頃です。明るい音楽が流れ、華やかな店の中で、子どもたちはものを買う(消費の)楽しさを知ってしまいました。その中で数限りなく万引きが起こりました。ものの豊かさのなかで彼らの心には、これは人のもの、これは自分のものといった所有の感覚が恐ろしく希薄になっていたのです。
 聖書にはモーセの十戒という有名な律法がありますが、その八番目に「盗んではならない」とあります。しかしこの子どもたちには、そもそも物を盗むのは悪いことだ、という感覚すら育っていないのです。
 背景は複雑ですが、問題の中心は家庭です。親が子どもを本気で叱れなくなりました。知人の中年の女性がこんな体験談を、腹立たしげに言いました。電車に乗っていたら、一人の子どもが大きな声で騒ぎながら走り回っています。迷惑なことですが誰も注意しません。その辺にも問題があります。しかし、見るとお母さんが傍にいるのです。そこで、「お子さんを静かにさせて下さいませんか」と言いますと。お母さんは何と言ったと思いますか。「おばちゃんが怖いから、静かにしましょうね」と注意したのです。「こんなのってあるー」というのが、そのご婦人を憤慨やる方のない嘆きの言葉でした。こういう叱り方では、子どもの心に善悪の感覚は育ちません。
(2)姦淫してはならない
 80年代の後半にはいると、性非行が目立ち始めました。女の子が特に活発になりました。ブルセラショップという店ができ、女子高校生が自分のセーラー服を売りに行く。次第にエスカレートして、下着まで売りにいくようになりました。衣服というものは、自分の所有物であります。自分の身体の一部といってもよい。それを売りに行ける感覚。しかも、補導されても悪びれもせず、「私のものなんだから、お金が儲かるし、別にいいじゃん」と言って、少年課の刑事さんを唖然とさせたものです。
 問題は深刻であります。自分の身体の一部のような衣服を売れた少女たちは、90年代に入ると当然のように、身体そのものを売るようになりました。いわゆる援助交際です。「別にへるもんじゃないし・・」とうそぶく彼女たちに、有効な答えを持っている大人はほとんどいなかったのではないでしょうか。
 補導された女の子のお母さんが警察に呼ばれました。そして、「こんなことでお金が儲かるなんてことを知って残念です」と言ったそうです。それでいいのでしょうか。「こんなことをして、恥ずかしくないの」と夢中で怒鳴りつけるのが、お母さんではなかったでしょうか。それをいかにも知的に、問題を真正面から見ないで、少しずらしてします。但し、私はお母さん方だけを責めているのでは、ありません。その頃はやった言葉は「うちには、ママが二人いる」でした。お父さんは家庭で、もっと主体性を欠くようになっていたのです。
 こうなったら理屈ではないですよ。悪いことは悪いとう、理屈以前の根本的な感性が問題なのです。聖書の十戒の七番目は、「姦淫してはならない」ですが、このような根本的な律法が心の中から消えてしまう時代になったのであります。
(3)殺してはならない
 90年代半ばからは、少年の自殺が相次ぎ、若者による殺人が頻発するようになりました。人を殺しても、何処まで本当に悪いと思っているのか分からない。大きなピークは、1997年の神戸少年殺傷事件でした。中学三年生14歳のあの少年Aは、仲良しの6年生の知恵遅れの男の子を殺し、その首を切って学校の正門に置きました。その前段階では、人間のからだとスイカやかぼちゃがどう違うのか確かめたいと、近所の少女をナイフで刺しています。自分のからだも、人のからだもこのように試してみなければ実感できないような、薄ら寒い精神状態です。
 万引きの対象は「物」でした。性非行の対象は「衣服」であり、自分の「からだ」でした。それが、「命」という最悪の問題まで進んでしまいました。
 その少年Aは、自分が魔物に動かされており、自分でもどうしようもないのだ、とまで言っています。悪に傾くのを止めようとする心がなくなってしまった状態です。この事件の2年前、1995年に阪神大震災がありましたが、その後神戸の若者の間では、「もう、何でもありだ」という言葉が流行ったそうです。一見自由の宣言のようですが、心を規制する律法がなくなった、人間でなくなったという宣言です。そのムードのなかで、中学3年生の子どもが、最悪の状態までいってしまったのであります。心の中から、人間同士のもっとも基本的な律法である「殺してはならない」という第六戒が、消えてしまいました。
 今年6月秋葉原で、7人の何の関係もない人を無差別に殺したわかものは24歳で、神戸のあの少年と同年です。そして今の流行言葉は、「誰でもいい」だそうですが、それに共感する多くの若者がいる時代なのであります。
(4)アノミー
 今私たちが直面している大問題は、心に律法のない若者が育ってきてしまった、という事態です。そして周りを見回すと、子どもや若者たちだけではありません。建築の手抜き工事、食品の偽装問題などなどが次々に暴かれています。教育する側の大人の心にも、律法がないかのごとくです。
 聖書では、このような心の中に律法の支配しない状態をアノミー(不法)と呼びます。良心は律法とともに働くからです。律法に照らして、これはいいことだ、これは悪いことだと判断します。律法がないと、この正常な判断ができなくなります。人格が形成されません。人間らしくなくなってしまうのです。私たちは、秋葉原の事件を聴いて、ぞっとしました。まるで悪霊に憑かれたのではないか。人間のすることではない、と感じるからです。
(以下次号)

(インマヌエル大宮教会 会員)

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