同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 主の復活 —

「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」(ピリピ 3:10-11)

 4月12日がイースターです。それにあわせて、復活について考察し、私たちの信仰を深めていただくことは、相応しいことです。今回は関連するみことば掲げるだけにします。
 イエス・キリストは十字架に架かられた後、復活されました。その復活は、私たちの信仰の保証、救いの保証です。
 新約聖書を読むとき、当時すでに復活がないという議論がなされていたことが分かります。それにパウロはするどく反論しています。パウロは、復活が無ければ、私たちはまだ罪のなかにいることになると強調しています。

「ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」(コリント I 15:12-17)

「 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(コリント I 15:20 )

「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」(ローマ 6:5)

「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。」(コリント I 15:42-44 )

 私たちは、やがて復活されたイエスと同じ復活の、霊の体をもち、イエスと共にいることが保証されています。復活されたイエスは弟子たちに自分の復活の姿をしめされましたが、それが私たちのものとなるのです。

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