同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 万人祭司・万人予言者・万人王(第40回) —

野澤 睦雄

・・クリスチャンはみな預言者である。みな祭司である。また王である。キリストにあって、神は私たちを一体とし、そして王位に着けられた。
・・ C.E.ジェファソン(「教会の建設」から引用)

2. 旧約における三つの職務の考察(つづき)
2.2 預言者(つづき)

 「ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。」(列王記 II 4:1)と叫んだやもめのことばに帰って、神を畏れるとはどういうことか考えてみましょう。かつて、私の観察では、どうみてもとても神を畏れているとは思えない人物が、堂々と「主を恐れることは知識の初めである。」(箴言 1:7)とのみことばを引用し、一席ぶっているのを見ました。それで、このことばを知っているだけでは足らないことをつくづくと感じさせられました。もちろん、言動などから単にそう感じるというだけですから、断定してはいけないでしょうけれども。
 ここに言う「恐れる」という漢字は、恐怖、怖がるの意に用い、「畏れる」は畏敬、敬うの意に用いますから、新改訳聖書では「恐れる」としていますが、「畏れる」の方が適切でしょう。恐らく「畏れ」という漢字が当用漢字からはずされてしまったので、代わりに用いたものと思います。
 神を畏れるということについて、まず畏れるべきお方である神と自分との差を認識することが挙げられるでしょう。
「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。『聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。』その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。そこで、私は言った。『ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の【主】である王を、この目で見たのだから。』」(イザヤ書 6:1-5)これはイザヤが見た神のお姿ですが、多くの預言者たちが、このように畏れるべきお方である神と自らの実態を見たのです。
 イエス・キリストがおいでになって、人間と神との関係が「父と子」、「夫と妻」、「師と弟子」、「牧者と羊」ということをもって表されるものであることが改めて示されましたが、イザヤが見たような神と自分の関係、神は高き方であり、私たちは地につくものであるという、そこに絶対的な差があることを認識していることを信仰の基礎としていなければならないのです。
 神を畏れることについて、次に覚えておかなければならないことは、神が絶対的権威をお持ちであることです。イエスに中風の僕をいやして頂いたローマの百人隊長は、彼の部下に対する命令は皇帝の権威によるものであることを理解していました。そしてさらに、イエスが神の絶対的な権威をお持ちであることそ悟っていました。彼はイザヤと同様に、自らのイエスに対する位置をも理解していました。そして畏れをもってイエスに接しました。神を畏れることは信仰と結びついているのです。
 アブラハムが、イサクを捧げたとき神になんと言われたでしょうか。「今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」(創世記 22:12)あなたが「神を畏れる」ことが分かったと神ご自身が言われたのです。そしてこの箇所を解説して、ヤコブは、「私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたではありませんか。あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ、そして、『アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。』」(ヤコブ 2:21-23)と述べています。この二つの箇所を比較してみるなら、信仰と神を畏れることとが一体であることが分かります。
 実際の信仰生活においては、神が置かれる職位というものも考慮しなければなりません。牧師は神に任命された職位であるから、信徒は牧師を畏れなければなりません。神学校にいって聖書を学んだからとか、キリスト教のことをよく知っているからとかいうようなことではありません。私たちは自らすすんで教会の働き人の同労者になろうと願っています。神が置かれた牧師の職位というものを理解して、はじめてその方の同労者になれるのです。
 神を畏れるものは、神のことばにしたがわなければなりません。サウル王が、あなたは神のことばに従わなかったと叱責された箇所を見てみましょう。
「するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」サウルはサムエルに言った。「私は罪を犯しました。私は主の命令と、あなたのことばにそむいたからです。私は民を恐れて、彼らの声に従ったのです。」(サムエル記 I 15:22-24)
サウルは、神でなく「民を恐れて、民の声に従った」と自ら告白しています。
この聖書の箇所は、神のことばに従うことほど大切なものはないことを、強く私たちに示しています。神を畏れるものは神のことばに従うのです。
 神を畏れることにむすびついているもうひとつのことは、神が憐れみ深く、豊かに恵みを下さるお方であることです。
「主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。・・・」(詩篇 103:8-14)
 神を畏れるものに、神が恵みをくださるというみことばは、数多くあります。
 神を畏れるということと結びつけて以下のようなことが記されています。これらのみことばは、神を畏れるということに光を投げかけています。
「あなたは耳の聞こえない者を侮ってはならない。目の見えない者の前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を恐れなさい。わたしは主である。」(レビ記 19:14)
「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。」(レビ記 19:32)
「あなたがたは互いに害を与えてはならない。あなたの神を恐れなさい。わたしはあなたがたの神、主である。」(レビ記 25:17)
「もし、あなたの兄弟が貧しくなり、あなたのもとで暮らしが立たなくなったなら、あなたは彼を在住異国人として扶養し、あなたのもとで彼が生活できるようにしなさい。彼から利息も利得も取らないようにしなさい。あなたの神を恐れなさい。そうすればあなたの兄弟があなたのもとで生活できるようになる。」(レビ記 25:35-36)
「あなたは彼(奴隷となったあなたの兄弟-同族)をしいたげてはならない。あなたの神を恐れなさい。」(レビ記 25:43)
 日本でキリスト教を信じた人々の大多数が、あたかも学校でも卒業していくかのように、二、三年信仰生活をした後、教会を去っていってしまうという現実があります。そのもっとも重要な理由が、神を畏れる思いが心にしっかりと根付かなかったためであると考えられます。教会に来て、イエス・キリストは、恵みのお方です、優しい方です、心をいやしてくれます、なんでも赦してくれます、・・・、ということしか教えられなかったためでしょうか?そのため、神から離れることに恐れを持たないのであると思います。先に述べたとおり、アブラハムは神から「今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった」と言われました。アブラハムが「信仰の父」と呼ばれるのは、私たちがもし信仰に生きようと思うなら、彼に倣うことを求められるということを意味しています。神を畏れることが信仰の基礎なのです。
(以下次号)
(仙台聖泉キリスト教会員)

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