同労者

キリスト教—信徒の志す—

証詞

世に勝つ勝利の道を与えられて

齊藤 恵一

「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。
そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。あかしするものが三つあります。御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。
もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。」(ヨハネI 2:4-10)

 『学校の成績が悪くても、友達にいじめられても、会社を辞めさせられてもいいんだ。神様を信じればそれでいいんだ。』
 私は牧師先生の言われた、この言葉に後押しされ、また励まされて自分の罪を告白し、救っていただこうと決心しました。
 私はクリスチャンの家庭に生まれて毎週教会に通っていました。しかし私の心の中というのは、あまり神様の方向に向いていませんでした。むしろ世の中の方にばかり心が向いていました。その中でも特に大きな問題となったのが、中学校・高校の学校の人付き合いでした。どうしたら、彼らと上手くやっていくことが出来るのだろうか?彼らは何を考えているのだろうか?どうすれば自分が彼らになめられずにすむだろうか?彼らは・・・彼らは・・・と、自分の中で常にその『彼ら』について悩んでいた覚えがあります。私の心の中はそのようなことで満たされていて、神様が介在する隙間がなかったかと思います。
そして、そのことで悩まされないように自分に力をつけようと悪いことをしたり、思いもよらない行動をしたりしてみても、それは血で血を洗う結果となり、何の解決にもなりませんでした。そのときの私には神様の言葉を聴くという選択肢はありませんでした。その結果、私は色々な罪を犯していて気づいたら多くの罪を借金のごとく作っていました。
しかし、そのような中でも教会には通っていました。それは両親の教会に行くことの助けと教会の方々の魅力ということもありました。しかし残念ですが、惰性ということも正直ありました。
しかし、私に変化がありました。それは教会で牧師先生が語っているメッセージが自分の心にいつの間にか響いてくるようになっていたということです。特に響いてきたのは、『悪』について語られたときです。とてつもなく苦しんだ思いがあります。
 そして、自分が悪いものだと自覚してきたときに、自分はこのままではダメだと思い、牧師先生に自分は多くの罪を持っていますが、この罪をどうすればいいですか?というふうに尋ねに行きました。そして、牧師先生に言葉を授かり、神様に私の罪をとりなしてくださるよう祈っていただきました。そして、イエス・キリストによって自分の言い表した罪を赦していただくことができました。
 そのあとで、私が罪を犯した人たちに謝罪に行ったり、弁償したりしました。私が謝りにいった先の人たちは、「謝る必要があるの?」とか「何年も前のことでそのときの店長はもういないから別にいいよ。」といった意見でした。中には「君みたいな子がわざわざ謝りに来るということは簡単なことじゃないよ。君を応援するよ。」という方もいました。しかし私としては、そういった言葉よりも自分が少しでも罪の償いをしているんだという事にとても心動かされました。
ぼくは謝っていくうちに自分が悪いものだということを一層自覚すると同時に、今度はイエスの血でその謝っている罪を洗っているのだなと感じました。そして、謝罪の前には必ず神様に謝罪し、世の人にも赦しをもらえるように神様に祈っていました。そうしていくうちに中学・高校での悩みがとても小さくなり、自分が少しだけ強くなったような気がしました。
このように神様のご計画の中に私がいて、イエス・キリストが私の罪を贖ってくださったことを感謝しこの道が真実だと信じてたゆまず歩んでいきたいと思います。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)

藤田美智子

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