同労者

キリスト教—信徒の志す—

わかふうふ、わかもん、いっしょに学ぼっ!

— 努力して —

山田 行

「イエスは、人々に言われた。『努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。』」(ルカ 13:23-24)

 8月は夏休みがあったり仕事もお休みの時があったりと沢山の人たちが帰省したり旅行したりしている姿を見ます。仙台も七夕や、各地でお祭りやイベントがありとてもにぎやかで気持ちも楽しくなる時でもありました。子供たちも、それぞれに夏休みの間にやりたいこと、遊びたいことに気持ちが揺らいでいて時間がもったいないと夜も寝ないでいるときもしばしばでした。いつもとは違うテンションでにぎやかな日々でした。子供たちや、自分を含めニュースなどでみる多くの人たちの姿を見ていると、どうやったら自分の人生を楽しく思い通りに生きれるかで、多くの時間や金銭を使いそのような思いに心が一杯になってしまします。上記の御言葉のように人々は「努力して狭い門からはいりなさい」などどそのような大変で苦しそうな道を選ぶのでしょうか?と思いました。誘惑は激しいものです。
 信仰は、こうしたいという単なる願望ではなく、そのために祈り現実に苦しみ、戦うことを意味します。狭い戸口ですから自分の好みでいろいろなものを持って入ることも出来ません。だから余計な多くのものを捨てることも必要です。このように、神の救い、信仰の世界を生き続けることは、厳しいものだということです。もちろんそこには深い神の哀れみ、平安そして愛が溢れているのですがそれを知ること、味わうまでには、努力が必要です。
 私も神に救いを頂いて20年以上になりますが、何度も大きな道、一見、楽しそうで賑やかで、幸せそうに見える方へ生きたいなと誘惑されることは多々ありました。しかし神のみ手にしがみついて、教会を離れないで、メッセージに生きることに努力しました。どのような中に置かれても、泣きわめいたりもしましたが、逃げないで神の前で待ち望みました。そして今は愛する子供たちの手をにぎり狭い戸口に入れるように努力しています。子供たちは、今、時には嫌な顔をしたり疑問を持ったり、悲しんだりしますが生まれた時から家族の取り組みと教会の取り組みの中で育てられています。私たち先を歩んだものが世の中のいう希望や幸せではなく神と共に生き抜く希望、幸いが本当にすばらしいものであることを知ったからこそ、子供たちへの努力を惜しんではいけないと思いました。手を離してはいけないと思いました。
(仙台聖泉キリスト教会 会員)

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