同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 万人祭司・万人予言者・万人王(第45回) —

野澤 睦雄

・・クリスチャンはみな預言者である。みな祭司である。また王である。キリストにあって、神は私たちを一体とし、そして王位に着けられた。
・・ C.E.ジェファソン(「教会の建設」から引用)

2. 旧約における三つの職務の考察(つづき)
2.3 王(つづき)

 旧約聖書の時代の王の職務はどのようなものであったか、検討しています。その第一は、軍事的に国を守ることであることをとりあげました。国の全ての基盤は、この周囲の外国、周囲の民から守られていることであって、それなしには国内のあらゆる事が立ちゆきません。ギデオンがその働きを始める直前の状況が以下のように記されています。
「こうして、ミデヤン人の勢力はイスラエルを押さえたので、イスラエル人はミデヤン人を避けて、山々にある洞窟や、ほら穴や、要害を自分たちのものにした。イスラエル人が種を蒔くと、いつでもミデヤン人や、アマレク人や、東の人々が上って来て、イスラエル人を襲った。そしてイスラエル人に対して陣を敷き、その地の産物を荒らして、ガザに至るまで、イスラエルに羊や牛やろばのためのえささえも残さなかった。・・しかも、彼らは国を荒らすために入って来たのであった。・・このとき、ヨアシュの子ギデオンはミデヤン人からのがれて、酒ぶねの中で小麦を打っていた。」(士師記 6:2-8、11)
 国が荒らすにまかされているとは、何とみじめなことであったでしょうか。
 ネヘミヤがエルサレムの城壁の修復を思い立った状況はこのようでした。
「ハカルヤの子ネヘミヤのことば。第二十年のキスレウの月に、私がシュシャンの城にいたとき、私の親類のひとりハナニが、ユダから来た数人の者といっしょにやって来た。そこで私は、捕囚から残ってのがれたユダヤ人とエルサレムのことについて、彼らに尋ねた。すると、彼らは私に答えた。『あの州の捕囚からのがれて生き残った残りの者たちは、非常な困難の中にあり、またそしりを受けています。そのうえ、エルサレムの城壁はくずされ、その門は火で焼き払われたままです。』・・・そのとき、王は私に言った。「あなたは病気でもなさそうなのに、なぜ、そのように悲しい顔つきをしているのか。きっと心に悲しみがあるに違いない。」私はひどく恐れて、 王に言った。『王よ。いつまでも生きられますように。私の先祖の墓のある町が廃墟となり、その門が火で焼き尽くされているというのに、どうして悲しい顔をしないでおられましょうか。』」(ネヘミヤ記 1:1-3、2:2-3)
 このことは、捕囚から帰っていった人々は、自分たちだけの守りを持っていないので、生きていくために周囲の異邦の民と一緒の生活を余儀なくされていることを意味しています。
 すべてのキリスト者には、神から委ねられているものたちがいます。教会の中で牧師は教会員全体を、家庭をもっている男は家族を、というようにそれぞれその立場に応じて守るべき者を委ねられています。
 そこに押し寄せる外敵はなんでしょうか。それは「この世」です。もし何もせずに放置しておくなら、家庭は城壁の無い町のようになり、自分の家庭の子どもたちに、この世の価値観、この世の楽しみ、この世の生き方がどんどん入ってきます。そして彼らはこの世の富を追い求めて生きていくでしょう。そして、サウルやエリがお叱りを受けたそのことばが当たるものとなってしまいます。
「サムエルは言った。『あなた(サウル)は、自分では小さい者にすぎないと思ってはいても、イスラエルの諸部族のかしらではありませんか。主があなたに油をそそぎ、イスラエルの王とされました。・・』」(サムエル記I 15:17) なぜあなたは民を恐れて、神のことばではなく民のことばを聞くのか。あなたは彼らに命令する立場ではないかという意味です。
「(神はエリにこう仰せられた)・・またあなたは、わたしよりも自分の息子たちを重んじて、・・」(サムエル記I 2:29)
エリもサウルも共通の問題であることが分かります。
 それに対応するには、心を奮い立たせる必要があることでしょう。ダビデにもそのような時がありました。
 ダビデはサウルの追跡を避けるためにペリシテ人、ガテの王マオク子アキシュのところに逃れていったため、ペリシテ人がイスラエルと戦う戦争に従軍せざるを得なくなりました。しかし、ペリシテの他の首長たちは、ダビデが一緒に行くことを拒みました。もちろん、それは神のダビデに対する助けでありました。彼らが自分たちの住んでいるところから戦争にでかけている間に、アマレク人たちが彼らの住まいを襲い、妻子も財産もことごとく奪っていってしまいました。その時のことがこう書かれています。
「ダビデは非常に悩んだ。民がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩まし、ダビデを石で打ち殺そうと言いだしたからである。しかし、ダビデは彼の神、主によって奮い立った。」(サムエル記I 30:1)
 彼が心を奮い立たせて行動にでたとき、民と書かれている彼の部下たちは彼についてきました。
 私たちの信仰の馳せ場にも、時には心を奮い立たせて事に当たらなければならないことがあります。自分に委ねられている守るべき者たちのために、キリストと共に勝利者であることを目指しましょう。
「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ 16:33)

(以下次号)
(仙台聖泉キリスト教会員)

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