同労者

キリスト教—信徒の志す—

JSF&OBの部屋

主と共に歩みしノート

石井 和幸

「ただ、あなたは、ひたすら慎み、用心深くありなさい。あなたが自分の目で見たことを忘れず、一生の間、それらがあなたの心から離れることのないようにしなさい。あなたはそれらを、あなたの子どもや孫たちに知らせなさい。」(申命記 4:9)

 今から13年前の話になりますが、私は大学4年生の時、卒業が許されず留年をするという経験をしました、留年が決まった日、私は牧師先生にこう話しました。「僕は期末試験の勉強をしながら、神様に問いかけの祈りをしました。『この大学4年間を評価して下さい』と。自分では再試験対象になるも、結局卒業はさせてもらえるのかなと思っていましたが、結果は留年でした。」すると先生は私にこう話されました。「あなたがそう祈ったのなら、結果は間違いなく神様からの答えなのだから、これから一年、あなたは黙って主に仕え、必死で勉強しなさい。」 ・・・そして時を同じくして、牧師と婦人伝道師の両先生から、同じことを言われました。それは「自分の歩みに対して、神様からどんな示しがあったか、自分はそれにどう答え、何を取り組んだか。何を神様に問いかけたか。そして神様は自分の歩みにどう介入されたか、心の中のノートにその都度記していきなさい。そのような営みは、最初は点、やがて点が線になっていく。続けることによって、あなたは神様と共に歩むこと、神様の導きを実感し、神信仰なしの生活が有り得なくなるから」という事でした。(このことは留年が決まる前にも先生方から言われていたかもしれませんが、恥ずかしながら、私は先生に対しあまり聞く耳をもっていませんでした。)
 その日から、私は神と共に歩むこと、神が私にして下さったこと、私自身の信仰生活を心の中に刻みこむことをしました。具体的には、牧師先生方と共に祈り、神の導きを探るという営みであり、同労者の誌面にて常に証ししている通りです。
 さて、自らの職業選択、伴侶の選択、その他様々な人生の選択の問題を都度牧師先生のところに持っていき、また普段の生活の様子、趣味や志向などを先生や教会の方々に話さないと、信仰生活は成り立って行かないのでしょうか? いちいち自らの近況を証ししなくても、礼拝に集い、献金をしていればいいのではないでしょうか?・・・そのとおりだと思います。けれども、「主と共に歩みしノート」を、自分だけで、自己流でつけるのと、よき牧者、導き手のもとで、恵みと導きを共感し、未来への方策を祈り求め、感謝の証しをしていくのとでは信仰の成長においてかなりの差が出てきます。私も若い時はその違いがあまり分かりませんでした。けれども年齢を重ね、責任が重くなり、自らが行う選択の重要さが増すにつれて、自らの「主と共に歩みしノート」を読み返すときに、この小さき者の決意に対して、神の恵みと導きがいかに豊かであったかを覚え、感謝が溢れてくるのです。
 苦境や、重要な局面に立たされたとき、どんな信仰をもって決断するか? 次々と起こりだす事柄を、「偶然で不運な事」または単に「自業自得」と捉えるか? それとも、神の摂理にある事として、その召しに応えようとすることが出来るでしょうか? 「私はそんな器ではありません」と神に答えるか? 『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』(ヘブル11:1)と聖書にありますが、未来に向かって誇りをもつ信仰を一体どこで育んでいったら良いのでしょうか?
 ダビデ王のそばには、預言者ナタンがおりました。もしダビデが、「耳の痛い真理を預言者から聞きたくない」と言って、神のことばを畏れず、へり下ることをしなかったなら、・・・ナタンもダビデ王との真のコミュニケーションが成されなかったなら、神との約束は果たされたのでしょうか?・・・私は今、そのような神からの問いかけを自分のこととして受け止め、キリストの教会に於いて家族で主を畏れることに取り組んでおります。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)

イザヤ30:12

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