同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 信仰生活を身につけるには —

「だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。」
(ヤコブ 2:14)

 信仰を思想、物の考え方あるいは理想などにとどめるなら、書き物を読み、その教えていることを自分の考えとして受け入れるだけで事足りることでしょう。しかし、ひとたび信仰で生活をしようとしたなら、その考えどおりに生きることに対する自分の技量の不足を感じ、考えている通りに生きることができない自分を見いだすに違いありません。
 イエスは、信仰に関すること、すなわち霊的な事柄を教えるために、自然やこの世の中で起きている様々なことを引用されました。例えば、「空の鳥を見よ」、「野の花を思え」から始まって、市場のこと、日雇い労働者のこと、金持ちの生活や、「シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は・・」といった災害のことなど、拾い上げていったら、枚挙にいとまがありません。このことは、信仰のこと、霊的なことも、この世のこととよく類似しているため、この世のことよってに知恵をえて霊の事柄をわきまえることができることを意味しています。
 この世の様々なことがどのようにして私たちの身についたでしょうか。子供の頃はさまざまな遊びをしました。ビー玉、メンコ、おはじき、ベーゴマ、木のこま回しなどからはじまって、三角ベースの野球やら鬼ごっこ、かくれんぼ、夏には川遊びや釣り、冬にはスキー、スケート、そり遊び、雪だるまを作ったり、雪合戦、室内ではトランプ、カルタ、将棋、十六むさし、とか、正月には双六、といろいろありました。今の子供たちはパソコンやゲーム機を使った遊びやら、体育館なども整っていて、それにあった遊びをしていることでしょう。
 それらがどのようにして、身についたでしょうか。筆者はお兄ちゃんお姉ちゃん、近所の遊び仲間から、また父親から教わったものもありました。皆さんもそうでしょう。子供の頃の遊びの世界は、楽しく遊んでいることもあれば、時にはとっくみあい、泣いたりわめいたり、いろいろの事柄がありました。けれどもそうやって遊びの場にいるうちに、それらが身につきました。できないときは、お兄ちゃんたちが手とり足取り、こうやるんだと教えてくれました。遊びが身につくと同時に、それらが筆者の人間性を豊かに培ってくれました。
 振り返って、それをもって生活できるような信仰は、どのようにして身につくのでしょうか。遊びが身についたのと原理は同じです。そこに強い類似性があります。信仰に生きている人々の中におり、そのなかで一緒に生きているうちに身につくものです。ですから、私たちは信仰の良き友を選び、その人々と切磋琢磨しながら生きた信仰を身につけていきましょう。

Valid XHTML 1.0 Strict