同労者

キリスト教—信徒の志す—

寄稿

聖餐式

山田 義

 海外旅行で体験した礼拝のことを中心にして聖餐式のことを記しておきたいと思う。まずは、自分が身を置く教会で行われている聖餐式のようすをスケッチしてみよう。
私たちの中京聖泉キリスト教会では聖餐式礼拝というのが2か月に1回ある。その日は10時からの礼拝の時間がすべて聖餐式ということだ。牧師がこの日は祭服をまとい司式をする。聖餐に関する聖書の箇所からメッセージがあったあと、年配の男性が、小さく切ったパンが載った皿を持って、もう一人はガラスの杯が載った盆をもって会衆の席を回る、全員に行き渡ったところでみんなが一緒に食べ、飲む。そのあと祈りが続く。これがおおまかな様子である。

 今年の夏はポーランドとフィンランドに、ヨーロッパは初めてという友人と出かけた。国際語エスペラントの国際大会に参加した。1週間の大会中、公認のプログラムとして日曜日には礼拝がある。近年はカトリックとプロテスタント共同の礼拝 (Ekumena Diservo) となっている。今年は、ワルシャワから約100kmのビャウィストクという町にある工科大学が主会場になった。世界60か国から2,000人ほどが集まり真夏の1週間のプログラムがある。初日の日曜日の午前中に開会式、その午後はそこから歩いて20分くらいのところにあるカトリックの教会堂で共同礼拝があった。大きな新しい会堂であり、ソヴィエト崩壊後に建った現代のカトリック教会だということが分かる。大型の液晶パネル、プロジェクター、性能のいいスピーカがマリア像とともに目に入る。司式はカトリックの聖職者が二人、説教はプロテスタントの牧師が担当した。会衆賛美、聖書拝読などがあり、オルガンに合わせて会衆と朗読者が詩編の交読などがあった。事前にメールでイタリアの女性から詩編を朗読してほしい、という連絡があり、打ち合わせどおりマイクの前に立った。
 次の日曜日はワルシャワやアウシュヴィッツなどへ行く5日間の遠足で礼拝には出られなかった。旧都クラクフではある大きな教会が見学コースに入っていた。街の人々でいっぱい集まった礼拝というかミサであった。7、8人の聖職者が儀式を続けていた。観光客には会堂の中を一巡できるように人がひとりやっと通れる通路が確保されていた。祭壇の後ろを回りきったころ聖職者の朗詠のあと突然ギターが鳴り出し、若い女性たちがリズムに合わせて歌いだした。短い時間だがビデオに収めた。その教会を出てから遠足を引率するポーランド女性と話した。「こんな古い教会で若者がギターで讃美歌を歌うなんて!」と。若い聖職者で熱心な人がおり、今の若い人たちの出番を作っているのです、という返事だった。こうしてカトリックの教えが次の代へと継続されていくのだ。

 遠足でバスが一緒だった40人ほどとワルシャワで別かれ、それぞれが自分の国や旅行先へ向かった。私たちはヘルシンキ(フィンランド)へ飛んだ。ロックチャーチとか岩の教会とか言われる教会がヘルシンキ市内の住宅街にある。『地球を歩く』など観光本にも載っている。 前もって日曜日にはヘルシンキにいるように日程を組んでいた。 岩盤をくりぬいて屋根をつけたチャペルだ。10時ごろを目指してホテルを出た。礼拝中の観光客はご遠慮くださいという張り紙があったが日本から来た信者であることを告げると快く招き入れられた。300人ほどが集まるルーテル派の礼拝であった。もとソヴィエトの東欧の国と違って都会的な雰囲気だ。岩の壁に設置したパイプオルガンでソプラノの賛美の奉仕もあった。説教の後、まず何人かの人が聖餐を受け、そのあと順番に席からやって来る人たちにパンと飲み物を与えていた。私たちのは遠慮がちに最後尾の席に座っていたがその他にも何人かいた。そこから聖餐に出て行く人はいなかった。

 こういう聖餐式の方式を名古屋で体験する機会があった。この秋、ある教団の信徒大会があり、開会準備として舞台のピアノの調律を頼まれて仕事をした。調律をしながら見ていると、舞台の上には横断幕や講壇などが配置されていく、そのうちにいわゆる会議テーブルが設置され白い布がかぶされ、そのうえに菓子折りのような箱がいくつも準備されていった。仕事が終わったあと、せっかくだったのでそのまま残って午後の開会式に許可を得て出させてもらった。聖餐式があった。この会館の規則でホールの客席では飲食禁止なのだそうだ。舞台の上での飲食は許されている。各教会から代表が舞台に集められ開会礼拝式の担当牧師からその人たちに聖餐が配られ、やがてその人たちが、聖餐のために舞台へ上がってくる一般の人たちに聖餐を与える、という方式だった。私も促されて与った。午前中に見た菓子折りのような箱に聖餐の飲み物がはいった小さな紙コップが並んでいた。

 ここから古い話になる。20代のときに参加した1965年の東京大会では日基の下谷教会でエスペラントによる礼拝があり、讃美歌斉唱、聖書朗読、説教、献金、祈りなどがエスペラントで行われた。そのときは聖餐式はなかったと記憶している。

 それから、1996年、ダビデのエルサレム遷都3000年という年だった。名古屋から十数人で出かけた「ガリラヤの春」という聖地旅行の催しに夫婦で参加した。エルサレムでは巡礼者で賑わう聖墳墓教会を巡ったあと、城壁外にある「園の墓」を訪れた。花に囲まれた園の中のグループベンチで同行の牧師が聖餐式を執行した。申し込むとパンや杯を貸してくれる。イエスの復活をイメージさせる墓が見通せる場所だった。プロテスタントに属す人たちが好んで訪れる「園の墓」である。そのあと人でごった返すエルサレムの旧市街の城壁の中を歩く。石造りの古い建物の一室に入った、ここがかつてイエスが弟子たちと最後の晩餐を食べた部屋だという説明だったが、建築された年代は数百年後に作られたという。ここでは観光客が行き交う場所であり聖餐式をするすべはなかった。

 中東戦争のために大会開催が延期になっていたイスラエルでは2000年になってやっとテルアビブで開くことができた。大きなホテルを利用して開かれた、私にとっては2回目のイスラエルだった。このときはたしか水曜日が開会式であり、月曜日にプロテスタントエスペランティストの分科会があった。土曜日が観光遠足の日であった。私たちはナザレやカナなどイスラエルの北部の遠足を申し込んでいた。バスガイドから、きょうは土曜日だがバスの運転士や自分たちは特別に仕事をします、というあいさつがった。専門は植物学者だと言っていた。史跡の傍らに白イチジクなどを見つけては植物の話に熱中する人でしたね。イスラエル人エスペランティストが通訳と案内をしてくれた。新約聖書は常には読まない人だそうだが、カナに着く前にエスペラントの聖書を出してカナの婚礼の記事をやっと探して読んで聞かせてくれた。ヨハネの福音書3章からイエスが水瓶からぶどう酒を作ったというくだりである。そして私たちはバスを降りて、入り口に水瓶が置いてあるカナの教会に入った。イスラエルにもキリスト教の教会はあるにはあるが聖書の記事を記念した教会があちこちにある。観光のコースに入っている。ベツレヘム辺りでは古くからのアラブ人キリスト者が大勢いると聞いたがどういう礼拝をしているのか知る機会はなかった。

 2002年韓国のソウルでエスペラントのアジア国際大会があり参加したとき、土曜日の夜の懇親会のおり、どなたかキリスト者はいませんかと話しかけた。あの人やこの人がそうだと言って紹介してくれた。同年輩の男性 Li さんに明日の日曜日礼拝に行っていいですかというと大変喜んでくれた。明朝9時には会場の入り口にわざわざ迎えに来てくれた。私の妻も一緒に行くのもいいが1年前に日本で知り合った女性キリスト者とここで再会できたので、妻はその人の教会へ行くことにした。私は、Li さんに付いて行った。地下鉄を乗り継いで教会へ案内してくれた。礼拝の始まる前だったが、あちこちの部屋で教会学校の分級をしているところを抜けて牧師室にまで案内され恐縮した。説教の前に説教者自らいきなり私を300人以上もいただろうか、みんなの前で紹介した。いまソウルで開かれているエスペラント大会に参加の日本人のヤマダさんです、と。日本語を少し話す男性が最前列の私の隣に座ってくれた。大きなスピーカで力のこもった説教だった。聖餐式はなかった。 Li さんはこの教会の責任者の一人であった。その後娘さんが結婚し、初孫の写真を送ってくれたりしてときどきメールの交換があった。

 中国では世界大会が今まで2度あり、最初のときは大学で中国語をかじり始めた息子が急遽エスペラントを勉強して参加した。上海では外国人用の教会で礼拝に参加したという。その14年後、2004年に再び北京で開かれた。一人で参加した。このときはどこかの教会を借りて礼拝を持つということはなかった。会場の中の一室でキリスト者の分科会があった。主催者の一人は、今は退職の聖職者であるが教会(カトリック)から聖餐式を執行することは許されている者だと自己紹介があり簡素な礼拝が行われた。中国の会館の中のことであり、オルガンもなく、祭服も身につけない聖職者。小さなガラス瓶を取り出し、杯に注いで聖餐式をした。終わったあと、だれ言うこともなく周りの人に笑顔で握手をしてあいさつを交わした。「さあ、となりの人と握手をしましょう」という合図があったのではない。これは印象的だった。同じ杯から主の聖餐に与った兄弟姉妹としてどこの国の者か知らないが笑顔で握手をし合った。私は会場で、中国人のキリスト者に遇ってみたいものだと中国人の何人かに声をかけたがいなかった。探してあげようという女性もおりしばらく待ったが、中国各地からこのエスペラント大会に来ている人の中にキリスト者は見つからないという返事だった。
 しかし、北京の晩餐会で知り合ったエストニアの女性が来年の大会は自分の国の近くだから家にいらっしゃいということになり、次の年妻とともに初めての北欧を楽しんだ。

 初めてエストニアに行ったときは、この国がソヴィエトから独立して14年がたっていた。 この国はバルト三国の中でもプロテスタントが多い。ハアプサルの街のほぼ中央に昔からの石造りの教会があった。それまでは無造作に扱われてきたのだそうだ。この教会はルーテル派であり、マリア像が見当たらないことから、私たちにもカトリック教会ではないことが承知できた。つい数年前に西ドイツなどから献納された小型の新しいパイプオルガンが鳴っていた。そのそばの祭壇の周りで聖餐式が行われた。観光旅行の者として前に出て行くのをはばかった。礼拝が終わりエストニア語の聖書を買ったりしているうちに大きな木製の門は閉まった。慌てて裏口にまわって行くとテーブルの上で係の人たちがその日の献金を数えているのを横目でみながら教会を出た。

 カトリックが大勢を占めるリトアニアの首都ヴィリニュスでは日曜日以外にも礼拝があった。月曜日の朝9時からはルーテル派のプロテスタント教会でエスペラントによる礼拝があるというので、旅行者としては早い朝であったがホテルから歩いて、街の通りから奥まったところにあるルーテル教会を探して行った。隣国から大会に参加しているエスペランティストのルーテル派の牧師が司式をした。祭壇がありひざまづいてパンとぶどう酒を受ける柵がある。その柵を何というのか名前を知らない。司式者が液体の入った杯を一人に飲ませては飲み口を布で拭いて次の人に与える。飲むというより杯に口を付けてぶどう酒で唇を濡らす程度であった。

 2007年は横浜で世界エスペラント大会があり、日基の横浜指路教会を日曜日の午後借りることを横浜在住のエスペランティストキリスト者が手続きしてくれた。前日に私が司式予定のカトリックの退職神父を案内し打ち合わせをした。聖餐式は行わないということになり聖餐の道具を教会で借りる必要はなかった。説教はオランダ改革派の古典語学者の牧師が担当。

 ラトビアはほとんどがカトリック。礼拝は若い教職者が、エスペラントで司式をするのは今日が初めてですといういうあいさつで始まった。ここでは、というかカトリックではと言っていいだろう、まずぶどう酒は聖職者が代表して飲み、一般参列者はパンをいただくだけだ。パンといっても薄いせんべいのようなものをもらっていた。私は出なかった。もちろん賛美や祈り、聖書拝読やメッセージもある。

 去年はオランダのロッテルダム大会に参加し、会場の周りを散歩したらどこかで見たような覚えのある銅像が立っていた。エラスムスだった。勉強不足でエラスムスとロッテルダムの関係を知らなかったが、この神学者、思想家はこの町の誇りとされていることが後でわかった。ヨーロッパの宗教改革をリードした一人だ。ロッテルダムの国立美術館の近くにオランダ改革派の教会堂がありそこで礼拝があった。古い教会であり、出席者が全部着席するまでベンチの扱い方が悪くあちこちで座席を下ろす音がひどかった。小さなランプはついていたが、夏の昼間ではあるが薄暗くプログラムも読みづらいほどだった。横浜へ来ていたオランダの牧師が説教した。暗かったので簡単なデジカメでは会堂を様子を写すことが難しかった。聖餐式はなかった。

 聖餐式は主の晩餐から始まり、教会とともに行われてきた、教会の時代や教派の別を超え宣教と伝道活動のあるところでは聖書や讃美歌とともに大切な意味合いを持ちつつ礼拝の中で執り行われてきた。あってもなくてもいいというようなものではない。礼拝の中の重要な礼典であり、堅苦しい儀式というのではなく、これを通してなお聖書のメッセージを知り、主に近づき現代に教会を作っていく大切な礼典である。聖餐は信仰と心をもって食べるべきものである。ちなみに聖餐式をエスペラントでは、コムニーオといい、ギリシア語由来のエウカリスティーオという聞き慣れない言葉も辞書には載っている。サンクタ・マンヂョ(聖餐)という言葉も使われ、レオナルドダビンチの有名なあの絵の名前にもなっている。

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