同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 日々の潔め —

「あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。・・・良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。」(マタイ 7:16-17)

「まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。」(マタイ 23:26)

 今回はきよめ派の方々向けの解説です。きよめ派でない方々は、参考にとどめていただければよいと思います。おおよそキリスト者であるなら、神の前に、真摯に、潔く生きることをよしとするのですから、きよめ派の人々はそのような考え方に立ってこの問題に取り組むとお考えください。
 最近、きよめ派のいくつかの教団で、きよめについて、自教団の掲げる内容を問い直していることが伝わってきております。視点のひとつに、第二の転機でなく日々の潔めが大切であるという内容があります。
 日々の潔めが取り上げられる背景を考えてみますと、そのひとつとして、日々の生活の中に潔めは現わされず、真摯な信仰もないという信者が現れるためではないかと思われます。その原因は、「救いの経験」「潔めの経験」は伝えられても、信仰が思想にとどまり「信仰生活」になっていかないことがあげられることでしょう。その場合、信仰は心の問題のみであって、生活は別の原理で行っている、ということになります。
 日々の潔めを重視する場合に、警戒しなければならないことは、信者の多くはまだ潔めを経験していないということから、その日々潔く生きなければならないというすすめが、「律法」として働くのみで終わってしまう可能性があることです。
 きよめの本質は、よい木となること、杯の内側を潔めることです。その結果として、よい実を結び、外側もきよくなるのです。神に求め、願うことが、結果としての実の改善、杯の外側のきよさ、つまり、神の義、神の愛に相応しく生きることだけでなく、自らの内なる人が神の義、神の愛を生み出すことのできる者に変えていただくことでなければなりません。日々、潔めに生きることを、そういう視点で取り組むならば、神はその取り組んでいる人を潔め、日々潔めに生きることができる人としてくださいます。救いの経験、新生が、日々新生していなければならないものではなく、永続性があるのと同様に、神が木をよくしてくださり、杯の内側をきよめてくださった場合には、それは永続性があるのです。それを与えられた人は、第二の転機を与えられたことが分かります。その状態を与えられ、日々「生活の中に」自らの潔めを顕していくことが真の「日々の潔め」であることでしょう。しかし、日々真摯に潔めに生きることを怠るなら、元の通りよい実を結ぶことのない木に戻っていってしまいます。そこに日々の潔めの大切さがあります。

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