同労者

キリスト教—信徒の志す—

わかふうふ、わかもん、いっしょに学ぼっ!

— 私の神 —

森田 心

「しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」(ヘブル 11:16)

 昨年、一年の私共の教会の歩みを振り返ってみますと、若い方々の成長が教会の働きに大きな力となり動いてきたことを感じさせられました。そして、その一方、年を召された方々の病が多くあったことを思わされた年でした。もちろん、昨年だけではなく、神の祝福によって教会の年を数えるならば、そこに生きて来た方々も高齢になり、そこから起こる病にどのように向かって行かなければならないかを考えさせられます。
 教会は勢いをつけて強く進んでいかなければなりません。そして、その足並みを揃えていくことが更に大切になってきます。その歩調を整えていくことにいつも力を注ぎ続けている牧師と共に、そこに生きる信徒の一人でありたいと願うことであります。
 病を抱えた方々の検査、そしてその結果を待たなければならない期間、入院や手術がありました。私も何人かの方の入院のお見舞いにうかがわせていただきながら、少しでもその時を共に通過していきたいと願い、祈り歩んできました。婦人伝道師が、病の方の検査の結果が出た時、手術が終わった時、携帯にその報告を入れて下さいました。その方の病を教会は痛みとし、苦しみと感じて神の前に委ねてきました。幸いにも良き回復が与えられながら、昨年を感謝として締めくくることが出来たことを感謝致します。
 三世、四世の子供たちと、この教会と神の前に立ち続けて来た方々との豊かな交わりが与えられていることは、教会のすばらしい財産であり、神に感謝を献げることであります。
 それ故に、今、この教会の勝ち取らせていただかなければならないことが、私の世代に求められております。牧師の説教の内にも諸集会で語られるその言葉の多くにそのことが示されています。油断なく牧師の示す方向、見ている所、それが神の御旨であることを信じて、この年も歩み行かせていただきたく願っています。
 私が教会の一器官として相応しいところにはまることができたなら、牧師が礼拝説教で語られたとおり、神はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神とご自身を呼ばれたように、ご自身に私の名を冠して呼ぶことをしてくださると信じます。なんと栄光あることでしょうか。へりくだって、その恵みを望む者であります。(仙台聖泉キリスト教会 会員)

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