同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— お冠 —

 前にも書いたことであるが、本コラムはなるべく「あさっての方をむいた」タイトルを付けようと心がけている。読者の皆さんを「けむにまいて」楽しもうというわけである。
 最近人に会うたびに、「暑いですねえ」という。これぞ全く役に立たないことばであるが、それが役に立っているから面白い。本コラムも似たようなものか。
 今日は雨が降るという天気予報であったので、出かけるとき家の窓を全部締めて出た。ところがカンカン照りになった、中に閉じこめられているネコども、さぞや暑くて「あごがでている」ことだろうなぞと考えた。これは、マンガにした方がより面白い。あご(顎)が前とか下とかに長ーくなったネコを描けばぴったりである。
 あごが出たネコども、俺たちをこんな目にあわせて、とさぞや「お冠」であろう。
日本語は漢字のもっている意味がついてくるから、お冠には「冠」のイメージがあるのは当然である。冠に「お」がついただけで「ご機嫌斜め」であることを表すからなおいっそう興味が湧く。同様の内容を英語で表現したらちっとも面白くないに違いない。
 かつてはどうしたら役に立つことばを語れるかに「腐心(ふしん)」したが、今はどうした役に立たないことばを語れるかに関心がある。そのころは心が腐ることを求めていたのか?しらん。
 食卓の会話、これぞ正しく役に立たないことばを必要とする。何も話をせず、黙々と食べることに専念する?、それとも、胃の痛くなるような、役に立つことばを話す?、どっちも食事中には「いただけない」こと歴然である。

 若いときは、「欧米の教会は、社交場と化している」なんぞという先入観があって、教会の中で遊ぶということに理解が行かなかった。ひたすら、聖書を読み、信仰書を読み、聖書研究会、伝道会、教会を掃除してトラクトを配布にでる・・であった。ようやく、今頃になって、教会のなかで食べ、遊ぶ価値が理解できるようになった。
 ついに「焼きが回った」か?、いやいや、真理に目が開かれたのですぞ。

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