同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 万人祭司・万人予言者・万人王(第57回) —

野澤 睦雄

・・クリスチャンはみな預言者である。みな祭司である。また王である。キリストにあって、神は私たちを一体とし、そして王位に着けられた。
・・ C.E.ジェファソン(「教会の建設」から引用)

3. 新約における三つの職務の考察(つづき)

 世の人々は、子供たちを教育するために、親が教え、模範を示せ、といいます。そしてそれだけでは足らず、学校の先生にも教え、模範を示せと要求します。しかし、スザンナ・ウェスレーはその発想に明確に釘を刺しています。
「これ(子供たちを親の権威に服従するものとすること)をしなければ、いくら教えても模範を示しても役に立たない・・」
まず子供たちが親の権威に服することのできるものとなるなら、教えも模範も役に立ち、子供たちに有効に働きますが、それなしには、教えも模範も彼らに働きをしないことを示しています。そして、それが間違いないことであることは、日本の家庭でも、学校教育の現場でもいやというほど実証されています。
 権威の問題について触れてきましたが、その理由は、祭司、預言者、王、いずれの働きにも共通に必要な事項であって、もしこれを失ったなら、祭司・預言者・王の看板が掲げられていても、何も出来ない・・私たちは隣人を愛せよと命じられていますから、それを実行しようとしますが、その愛を必要とする隣人に対して権威がないと、愛が適切な働きをして、真に霊的な意味で隣人を助け、救い、癒すことができない・・からです。そして日本のキリスト教界を見回すと、ほとんどこの問題は心にとめられていないと感じられるからです。
 神の国の働きは、思想だけのものではありません。思想だけ伝えることで済ませて、それを「霊的」と間違えています。私は、兄弟が困難な状況にあることを相談に来たとき、「祈りましょう」といって祈るけれども、実際の生活上の問題に立ち入ろうとしないで帰す、ということをいっているのです。確かに祈るしか何もできない、という問題もあるでしょうが、多くは実際の生活上に何らかの処置、つまり手を打つ必要があるのです。そしてその取らなければならない手段が、往々にして相談に来た本人の意に添わないことであるのです。そのとき本人の意に添わないことを実行させうるか否かについて「権威」が問われるのです。ヤコブのことばを聞いて下さい。
「もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、 あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。」(ヤコブ 2:15-16)
「からだに必要な物」は、「もし」と前置きして、それは一事例であることを示しています。「体の必要とは別のものが必要であったなら、その必要なもの」を与えなければなりません。
 もし、与えるべき必要なものをもっていなかったら、そのときこそ、祭司、預言者、王である人物は、次のみことばを自分にあてはめなければなりません。
「また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ』と言ったとします。すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。」(ルカ 11:5-8)なぜなら、友が来たのにだしてやるものがないからです。「神よこの人にパンを与え給え」と祈るのではなく、自分が神に与えられて、その必要としている友に与えるのが役目です。使命に立つ人の祈りは、そのような方向でなければなりません。
 誰かが真摯な信仰生活を送るならば、そのひとは取り組まなければならない課題の連続の中を歩むことでしょう。そのほとんどは、日常生活の些細なできごとの中にあります。しかし、それが神の信仰者の前に置かれているものであって、それをどうするかによって霊的に成長しあるいは後退することになります。ですから、それが本人にも指導する人にも非常に大切なのです。
 ある人々は、このヤコブのことばを反対側に取り違えます。彼らは、積極的に貧しい人を求めて慈善活動をします。そして霊的な物が与えられるか否かにはあまり関心を示さないのです。
 何が本当に隣人の必要としているものか、その判断には困難がつきまといます。特に心を病む時代です。それがこの問題を一層難しくしていますから、心がけてそれらに関する知識を得、また常に神に近く歩んで、神の導きを与えられるところに自分を置かなければなりません。
 繰り返し述べていますが、イエス・キリストは、新約の祭司、新約の預言者、新約の王です。
 教会はキリストの体です。それ故、教会を構成する私たちは、新約の祭司、預言者、王なのです。イエス・キリストの手足となり、地上でキリストが働かれるその働きを実行するものとならなければなりません。次にその働きの考察をしていきたいと思います。

(以下次号)
(仙台聖泉キリスト教会員)

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