同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 個人の祈り —

「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(マタイ6:6)
「絶えず祈りなさい。・・・。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(I テサロニケ 5:17-18)

 集会における祈り、特に教会の祈祷会で祈ることが大切なことはいうまでもありません。それと同時に、個人の祈り、私たちひとりひとりがただ一人神の前に座して祈るいのりもそれと並んで大切であって、両方とも私たちの信仰生活に欠かすことのできないものです。
 冒頭最初のみことばは、イエスが山上の垂訓のなかで語られたことであって、会堂や大通りの四つ角に立って祈る人々との祈りと対比しておられます。彼らは見せるために祈っているのだから、見せるという報いを得てしまった、あなたがたは神にきいていただくことを求めているのだから、神とだけ相対して祈るようにとイエスは指摘されています。そしてお約束がつけくわえられています。そうすれば、隠れた所で見ておられる神はその祈りを聞いて下さると。これは、あらためて言うまでもなく、皆さんがよく知っていることです。
 冒頭2番目のみことばも、皆さんのよく知っているみことばであって、聖書を開かなくても言えるようになっておられるでしょう。絶えず祈ることを、イエス・キリストにあって、神が私たちにそうすることを期待しておられるのです。
 繰り返しますが、「自分の部屋に入り、戸を閉じて、隠れた所におられる父なる神に祈ること」「絶えず祈ること」これは、神が私たちに期待しておられることであり、そうすれば神がその祈りを聞いて下さるということを、私たちは皆知っています。
そして、祈りは信仰の指標であり、自らの霊性の指標であることもよく知っています。
しかし、
「自分の部屋に入って祈っているでしょうか?」「絶えず祈っているでしょうか?」
もしも皆さんのうちに、この二つの質問に対して「自分は不十分である」と思われる方がおられ、それに対してどうしていったらよいか求めておられるなら、そのことを一緒に深く考えたいものです。
 会社勤めや様々な日常の生活に、追い使われているためでしょうか。生活はひとりひとりみな違いますので、十把一絡げの答えはでるはずがありません。時間の問題はそれぞれが、置かれているその信仰の馳せ場に適わせて、工夫していくことが求められます。
 祈ることによってのみ、信仰に満たされ、高い霊性に進ませていただくことが可能となります。「私はいつも、私の前に主を置いた。」(詩篇 16:8)と言えるものとなることが鍵と思われます。

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