同労者

キリスト教—信徒の志す—

寄書

— MSR+ 宮城南部復興支援ボランティアに参加して —

愛知県:山田 義

 わたしたちの中京キリスト教会では「東日本大震災で教えられたこと」と題して、10月16日(日)午後にチャリティー講演会を開いした。ゲスト講師の近藤高史さんは名古屋で印刷会社をやっている人だ。それまで7回にわたり救援ボランティアとして被災地を訪問している。現場の作業で着用しているつなぎを着て、災害の写真、活動の様子を大写しにして見せてくれた。わたしはかねがね何か具体的にしなければと思っていたので、近藤さんの誘いで次の週の月曜から水曜日まで活動に応募することにした。

 ボランティアといっても何をどうする作業なのか分からないまま、仙台市は人と行ったことがあるが福島との位置関係も知らず、近藤さん案内のホームページから69歳男性が参加を申し込む。寒いかもということで防水の作業着などを新調し、厚手の衣類をトランクに詰めて出かけた。前日に福島に1泊する用事があり、福島には名古屋から半日で到着することを今回はじめて知った。寒さ対策の衣類はほとんだ出番がなかった、働けば暑くなるのだ。

「宮城県南部復興支援ボランティア」のセンターは岩沼市に拠点がある、グーグル地図で確認したところ、そこは仙台空港の南にある。空港に押し寄せる津波を映像で見ている。ボランティアセンターの本部は東京で、ウェスレアン・ホーリネス教団事務所と書いてある。

 JR東北線の岩沼駅に木内さんという牧師が軽トラックで迎えに来てくれた。つい最近まで南米ボリビアで伝道活動をしていた木内夫妻が今はこのセンターに常駐している。畑の中の平屋住宅を借りてあり玄関には何やら噴霧のタンクが見える。活動のために新しく掘ったという井戸からポンプで汲み上げている。部屋の壁には「EM散布」という文字が新聞の切り抜きに見える。津波が去った畑にEMというものを散布し塩害被害を克服しようとする作業のようだ。来る前にはチラシやホームページで読んだはずだがこうして現場に来ないと検討がつかなかった。明日からの作業のために、山形の教会から、千葉から名古屋から地元の教会から集まってきた。わたしにとっては一週間前に初めて知り合った近藤さん以外は初めて会う人ばかり。牧師も数人いる、わたしより年配の男性が2名も。学生男女も。山形県南部教会の岡牧師とその教会員たち。川上さんという建築士。千葉の大きな教会で牧会をしている小寺隆さんがこの復興救援委員会の委員長。

 3日間は朝6時から早天祈祷会。新約聖書しか持って行かなかったわたしはそこに備え付けの新共同訳聖書を借りて加わった。賛美と聖書と祈りとメッセージ。これが力になった。これがなかったら単なる乾いてしまったままの、疲れ切っただけの慣れない野外での作業になってしまっただろう。

 今朝の最初の仕事は3人で近くのレンタル屋で3台の軽トラックを借りてくることだった。マニュアル変速機の扱いに慣れているということで3日間ハンドルを握った。荷台に水を汲んだ大型タンク、始めての道を前のクルマについて走っていく、村の公民館広場に4台と13人が地元の岡崎さんを待つ、作業表や田畑の耕作地図を塗りこんでいた。1台づつ別れて作業。手順も機械の扱いや説明も手短に、エンジンがかかる、長いホースの先にスプレーがある。いつも台所にいて賛美や祈りが似合っている女性がすでに畑に立って噴霧を始めた。女性のボランティアはセンターに残って食事や洗濯でもしているのかと思ったが真新しい作業着を着て、軍手と長靴姿で大空の下、広い広い畑に立つ姿は頼もしい。3日間の作業はおもにEMの入った水を畑一面にくまなく撒くことだ。時には農家の床下にも、悪臭の除去に効果ありとうことで、散布した。家具も床も荒らされたままの、今は人の住んでいない家屋。

 農家の庭先の小さな畑、そこには農作業の小屋があったんだという更地になった土地、季節ごとの農作業が止まったまま草の生えるままになった農地。スプレーのノズルを調整しながら一面の畑にどの順序で散布するかを考えながら、後退りしながらの単純な作業、若いころアルバイトで近くの田圃に延々と続く草取り作業の暑かった日を思い出す。自分のピアノ調律という仕事と比べながら考える、よく似ているなと。綺麗な音になって弾く人が喜んでくれる。時には秋の収穫という、ピアニストが聴衆の惜しみない拍手をもらう、その影にあるのが調律師。よみがえれ日本!

 畑などの土を採取して木内さんは塩分濃度を測定器で記録している。現状では田んぼに水を流せないのだそうだ。阿武隈川から取水をしようにもポンプがダメ 排水路も壊れたり復旧がまだだ。幾つかの大きなビニールハウスのある農家へ行った。海側の道からクルマから見るとゴジラが崩れ落ちているように見える。庭にクルマを入れ、残ったハウスに入った。草が伸び放題。その外も畑は一面草が伸びている、草を刈ってみると畝が現れ畑だったことが分かる。エンジンの草刈りで岡崎さんが刈る、われわれは一輪車で枯れ草を一箇所に山と積む、やっとトラクターが入れるようになった。真新しい赤いヤンマーだ。その後にEMを散布して、作業が終わり夕方の光の中で畑に集まって農具を並べて写真に収まった。この赤いトラクタは震災後に買ったものだという。小さなビニールハウスには塩水をかぶって動かなくなったトラクターが伸び放題のトマトの枝に絡まったままだ。新しいトラクタにロープをつないで引き出すことになった。ロープがバサっと切れて、古いトラクタの一部を分解することになった。こんな時、いつもならスパナを持ってボルトを外して喝采を浴びるのはわたしの仕事であったはずだが、山形から来た学生青年が黙々とトラクタの中に入り込み部品を分解していく。今度はロープを切らずに搬出に成功した。青年の名前は義さん、わたしと同じ珍しい「義」タダシという名を持つ大学生だ。

 農家の作業小屋に、応急の生活空間があり、女主人が我々のために満面の笑みで柿をむいてくれた、有機農業で育てた優れた産物を誇りとしている人だ。ウチで獲れた米をボランティアセンターのご飯に持って行けと。ここまで水が来た、知り合いの誰かさんはこうして逃げた、飼っていた豚は流され泳いだが庭につながれたままの犬は可哀想だったとか、生の体験話を聞く。スリッパを履いてコーヒーを飲みながらソファで見るテレビ画面の話ではない、長靴の足は土についており、むいた柿を手でとって食べながら、壁に残ったここまでの水平線を見上げながら。

 手作りの夕食が楽しみだった。畳に座卓を並べてみんなで祈りをし、賑やかなひとときだ。聞きなれないことばがあった、「テーブルマスター」という。意味は分かるような気がする。果物が出たりしている。その日のテーブルマスターがきょうのテーマを、今、行きたいところはどこか、それをみんなに話せ、という。イスラエルへ行ってみたいとか、温泉がいいとか。わたしの番になった、「妻の待っている我が家に今すぐ帰りたい」と。ここが居心地が悪くて、作業が大変だから逃げて帰りたいという意味ではない、我が家に帰ることを遠くに望みながらこの活動に精一杯打ち込みたいという思いだったから。

温泉へ行くことになった。疲れきった者の回復の場所だ。夜の暗い道から高速道路を超えると街は明るくなってくる、「極楽温泉」の駐車場はクルマがいっぱい。風呂の中には健康で穏やかな顔がいっぱいだ。しかし、「我が家の風呂場」を失った人もいるだろう。明るい表情の街で営業している人たちもあの海辺の新しい家から通っていた人もあろう。鉄道が流され行く道を失った赤い機関車が青いシートに覆われた家のそばに停車したまま。人が集まるところに活気があり賑やかさがある、でも海に近いの家々には夕方の電灯すら灯っていない。

 風呂から帰ってクルマから降りて見上げると空の星は数が多い、光が澄んでいる、近藤さんは指さして星座を読んでくれた。10年前、夜中のシナイ山に登ったときに眺めた満天の星空を思い浮かべた。ときたま飛行機の姿を見る、ここは仙台空港のすぐ南の町だ。農閑期を前にして11月にもボランティアを募集して活動が続くそうだ、近くに2面の畑を借り、塩分濃度の変化を観察するという計画も準備が進んでいる。まだ来年も続くというこの救援活動。よみがえれ、春の畑。

(インマヌエル大宮キリスト教会 会員)

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