同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 万人祭司・万人予言者・万人王(第72回) —

野澤 睦雄

・・クリスチャンはみな預言者である。みな祭司である。また王である。キリストにあって、神は私たちを一体とし、そして王位に着けられた。
・・ C.E.ジェファソン(「教会の建設」から引用)

3. 新約における三つの職務の考察(つづき)
3.2 新約の預言者(つづき)

 新約聖書の中にもこのように多数の預言者と呼ばれる人々が記載されているのに、私たちの間では預言者とされる人がいませんし、そのことばを全く使いません。その理由を考えておきましょう。
 私自身は、先に引用した「律法と預言者はヨハネまでです。」とあることから、もうヨハネで預言者は終わったと長い間思っていました。恐らく読者の皆さんの中にもそう思われる方々がおられることでしょう。しかし、これは聖書の読み違いで、「律法と預言者」は旧約聖書を指していますから、ヨハネを境に新しい時代が到来したことが告げられているに過ぎません。
 私たちの間で預言者といわない重要な理由は二つあると思われます。
その一つは「偽預言者」の出現です。先に述べましたように、預言を未来のできごとを予告することとする内容に沿って、多くの偽預言者が未来のことを様々と語り、また特にいついつ世の終わりがくるといった預言をしました。それらの人々が予告した世の終わりの時がきても、いつもと何の変わりもないことがしばしば起こりました。偽預言者たちに追従していた人々は何かと理屈をつけて、その誤りを覆い隠し、その預言者に追従することをやめなかった例は多数あると聞いています。新約においてみ子の名がイエスであるのと同様に、旧約において神はご自身の名を「エホバ」であるとされ、その名が神の呼び名として旧約聖書に最も多く使用されているのに、日本語訳聖書からエホバは消えてしまいました。その理由は恐らく異端の「エホバの証人」が世界中ではびこっているためと思われます。それと同様の理由で偽預言者が私たちの間で預言者ということを口にすることを一掃してしまったのではないでしょうか。しかし、世はこれらの偽預言者を歓迎する傾向があり、今もノストラダムスなどが、テレビの番組をにぎわしています。世はサタンに属するものである証拠のようにです。
 私たちが預言者といわないもう一つの理由は、預言者のイメージを旧約の預言者たちの姿に重ね、それに相当するような人物が見あたらないためです。そのような内容に従ったなら、私たち自身も預言者と呼ばれたら恥ずかしくって穴があったら入りたいということになるでしょう。
「その日、その預言者たちはみな、預言するときに見るその幻で恥を見よう。彼らはもう人を欺くための毛衣を着なくなる。」(ゼカリヤ 13:4)
ここに旧約の預言者たちの中にも、神からみことばをいただいていないのに、それを人々に告げ、預言者と思わせるために、エリヤをまねた毛皮の外套を身にまとっている人々がいたことが語られています。神から告げられたことばでないので、その預言は実現せず、恥を見るというわけです。
 偽預言者や旧約の預言者のイメージはまず脇に置いて、新約聖書が告げる私たちの時代の預言者について考えていきましょう。もちろん祭司の場合と同様に、旧約の預言者は私たちに重要なヒントを与えています。
「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。」(ヤコブ 5:16-18)
このヤコブの指摘は、私たちがエリヤと同じような祈りの人であり得ると述べているのです。
期待できることの大きさに対してあまりにも小さい私たちであることを嘆かずにはいられませんが、一緒に打開の道を探りましょう。

(以下次号)
(仙台聖泉キリスト教会員)

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