同労者

キリスト教—信徒の志す—

JSF&OBの部屋

バイタリティ

石井 和幸

 「使徒たちは主に言った。『私たちの信仰を増してください。』しかし主は言われた。『もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ。』と言えば、言いつけどおりになるのです。』」 (ルカ17:5-6)
 「しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」(ルカ17:9-10)

 最近、「バイタリティ~vitality~」ということばが、心に留まります。辞書を引くと、「いきいきとした生命力、活力、活気」と書いてありました。今回は、自分にとって、神を信仰する生活における「バイタリティ」とはどういうことであったか、一部ではありますが振り返っていきたいと思います。
 私が中学一年生になった当時、教会のJSF(青年会・中高生会)のメンバー男子は、M兄の住むアパートによく招かれました。M兄は、社会人でありましたが、可能な限り私たちのために時間を割いてくれました。私も、その集いの一員として、M兄をはじめとする先輩方と楽しい交わりの輪へ加えていただきました。私が中学生の時は、教会のみんなに「思い出し笑いのカズユキ」と呼ばれていて、皆で集まって話したり、泊りがけで夜寝る時など、よく思い出し笑いをしていました。それは、その交わりのなかで発生した面白いこと、楽しいことをいつまでも持っていたい・・・という自分の思いからでした。M兄や、先輩方の働きを通して、私は「楽しい交わりの裏には、必ず犠牲と労苦を担っている人がいる」ことを学び、先輩方の「バイタリティ」に憧れを持ちました。
 やがて、会堂掃除、教会駐車場のシャッターを閉めること、音楽の奉仕、伝道活動・・・主に仕えるそれぞれの奉仕を通して、「自分自身」がどういう存在であるのか、常に問われました。なぜ自分は「バイタリティ」をもって仕えることが出来ないのか・・・その思いが、イエス・キリストの十字架によって救われる動機となりました。 
 私が大学生になると、学校の同級生たちは、一気にやりたい事をするようになりました。酒やタバコ、旅行やいろいろな遊び・・・羽根をのばしているのを見て私は、自分が教会にて信仰生活を送ることを不合理に思うようになりました。大学一年生の5月、そんな私に、キリスト者学生会(KGK)仙台地区月例会の案内が届きました。月例会に参加した私は、集会の後、もう一人の新入生と一緒に、先輩に誘われて牛丼屋で御馳走していただきました。そこで先輩は、聖書の話、信仰生活の証しを、周りの客が驚くほどの熱意で一時間話してくれました。私は、KGKの先輩方の「バイタリティ」に惹かれていきました。
 KGKでの祈り会、聖書研究会で学んだことは、色々あります。中でも、「集会を創り上げること」が私にとって大きなことでした。学内にもう一人、福音派のクリスチャンがいることを紹介されると、学内での祈り会が始まりました。聖書研究会は、ノンクリスチャンを加えての「伝道聖研」であり、参加するメンバーの発言、証し・・・それぞれに「バイタリティ」が必要でした。その「バイタリティ」を聖書に基づき、またグループの秩序に基づいて正しく用いることを、KGKの主事に教えられました。
 けれども、学生時代の私は、教会の牧師やKGK主事のアドバイスを、部分的にしか聞かず、基本的には自己流を押し通す者でありました。ですから、「バイタリティ」を持ちつつも的外れなことを続け、周囲の先生方・先輩方に悲しい思いをさせてしまうことが多々ありました。 
 社会人になり、私はクリスチャンとの結婚にこだわりました。両親の信仰を継承していくこと、特に父がイエス・キリストによって救われ、変えられて主にある「バイタリティ」をもって教会に仕えていることを継承したいと願いました。結婚が与えられるまで、私は神と人を愛するということはどういうことなのか、身をもって牧師先生方に教えられました。そして、神が必ず祈りに応えてくださることを信じながら、少しずつ歩みを進めていきました。「あきらめてはいけない、課題に取り組むことをやめてはならない」・・・歩みの遅い私を、先生方はバイタリティ=真実をもって導いてくださいました。
 私が中学生のときに教会の青年を招いてくださったM兄は、教会の諮問委員のひとりとなり、教会キャンプや、さまざまな教会の活動の企画、運営に携わりました。M兄をはじめとする先輩方ご夫婦の「バイタリティ」は、ひとりの魂の救いのために励む教会の「バイタリティ」となりました。私を含め、教会の若者が、先輩方のようにクリスチャンホームを与えられたい・・・と願ったのは言うまでもありません。
 この同労者の原稿を書こうとしている際、奇しくもKGKの主事が東北地区OBレターに載せた報告が目に留まりました。現代における若者の特徴と、バイタリティをもって成長することの大切さが語られています。以下抜粋して掲載します。
~「(東北地区の学び会にて、発題があった)その1つに『あなたが属しているグループにおける、あなたの役割は何ですか?自分で命名してみましょう』というのがありました。・・・私が参加したあるグループに『自分はどのようなことができているかわからない』と言った学生が2名いました。その2名は学内グループがない学校に通う学生だったので、教会での役割を考えていたようでしたが、私は2人の話を聞きながら、自分に与えられている賜物は意外と気付かないものかもしれないと思いました。このことは、特に現代の若い人に強い傾向かもしれません。私たちは、今、とても便利な社会に生きているため、自分で何かをやってみることで学ぶ機会は少ないように思います。また、きれいに出来上がったもの・事柄を目にする機会が多いため、自分でチャレンジする気持ちになりにくいということもあるかもしれません。私たちは、様々なことを実際にやってみる中で得意・不得意なことに気付いたり、何度か失敗した結果、できるようになったりします。そのような経験が少ないことは、自分に与えられている賜物に気付く機会を奪い、さらに自信を持ちにくくしているのではないか、と思いました。与えられている賜物に気付き、それをより良く用いていくならば、本人がいきいきすることはもちろん、周りの人も励まされ支えられて行くことでしょう。学生たちと接していく時、それぞれの良いところを評価しつつ、新しいことにチャレンジすることを励ましていきたいと思わされました。」~
 3歳になった私の娘は、バイタリティに溢れる子どもであります。「おじいちゃん、私、トマト食べられるようになったよ」「おばあちゃん、私、トマト食べられるようになったよ」・・・と、一度大きな声で話せば食卓にいる家族全員に伝わるようなことも、各々に声をかけ、それぞれの反応を確認しています。 時に、あえて計算して笑いを誘うときもあります。娘の発言、行動・・・よく分析してみると、それは親である私たち夫婦がしている発言、行動を真似ていることに気付きます。将来、娘が神と人に仕える理由を問われた時に、彼女が「自分もそのように愛されたから」と告白できるように、主なる神が、豊かに私たちの家庭と教会をバイタリティ溢れるものへと導いて下さるように、祈りつつ取り組みたく願っています。

真実

(仙台聖泉キリスト教会 会員)

Valid XHTML 1.0 Strict