論説
— 神が人となられた意味 —
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。・・・ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ 1:1-4、14)
 世にある様々な分野で「傑作」と呼ばれるものがあります。絵画でしたらミレーの晩鐘や、ダヴィンチの最後の晩餐、フェルメールの真珠の耳飾りの少女、マネの笛を吹く少年などを思い浮かべるかも知れません。「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」(エペソ 2:10)
  私たち人間は、神の作品であると聖書に明確に記されています。そしてそれはすばらしい「傑作」であって、神がご自分も人間になってもよいと思われるほどのものでした。
   創造の業がなされたとき、サタンがやってきてその傑作を汚し、破壊しました。しかもサタンは人間の外側ではなく、内側を破壊しました。それは内側にある「いのち」を奪ったのです。傑作である絵画に誰かがペンキをかけて汚したりしたら、人々はそのペンキを除いて一生懸命修復するでしょう。神もご自身の傑作を修復することをされました。ペンキでしたらシンナーで洗い落とせばとれるでしょうけれど、人間の修復は、その汚れをご自身の血で洗い落とさなければなりませんでした。そして奪われた「いのち」を与え直さなければなりませんでした。そのために神ご自身が人になりました。そして、十字架の贖いによってイエスのいのちをもう一度人間にお与になりました。神の修復作業が完成した暁には、人は罪に陥る前のアダムに優るものになるのです。
  しかし、神は私たちを一度にアダムの様にはされず、私たちの修復に時間をかけられます。現在の私たちは神が修復作業をされている真っ最中です。神の手に私たちをお委ねするとよく修復され、それを拒むとその拒んだ部分は修復されずに残ります。ですから私たちは神の手に進んですべてをお任せして、み心に従って生きていきましょう。小原鈴子さんの讃美歌のように、物ではなく自分自身を神にお献げして。
  心のそこより 君にささぐる
    いやじろにとて 神の賜いし
    自由のわが意志 今こそ献げん
    受けたまえ主よ 恵みの御手に
  ものにはあらで このまま我を
    君がみ旨に またくぞ献げん