同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— 63歳になって思うこと —

石井 行雄

「私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。」
(ローマ 15:2)

 私が勤めている石井商工※の工場は、今、震災の影響があって、何年か振りで忙しく、アルバイトや他社からの手伝いの人等も含めて13人の人が働いています。その中で6人が仙台聖泉教会の信者です。40年前に私が入社した時も13人でした。約52年前に設立されてから多くの人が働きましたが、当時工場には私以外キリスト者は一人もいませんでした。
 このことを考えると、教会の中での会社の大切さを感じ、今月63歳になった私は将来の後継者を視野に入れ、どう考え、話
し、行動しなければならないか、あれこれ思いをめぐらすことの多い昨今です。
 会社は、私の親が戦争の時代に、りんご箱の上に鍋、釜等を置いて売った「金物屋」が始まりだったそうです。今も私の記憶にあることは、父はある日手持ちのわずかなお金を前にして「これで神様は必ず家族を養ってくださる。」という燃えるような信仰が起こったとのことです。それから何十年という月日が流れ過ぎたのでしょうか。
 これらのことを考え、今の会社を見たとき、私の心に「あなたの始めは小さくても、その終わりは、はなはだ大きくなる。」(ヨブ記 8:7)の聖句が浮かんできます。
 戦争が終わり、「金物屋」を始めて何年か後に仙台聖泉教会の最初の会堂が建てられたときは、困難な経済状況の中で、両親は教会の同志と共に戦い、大きな働きをしたと聞いています。今思い返すと特に若かった頃の私は、親が愛をもって私を育ててくれていたにもかかわらず、親の信仰と苦労を知ろうともせず、自分のことは棚に上げ、欠点や落度をただ批判し、足を引っ張っていたような愚かな者でした。
 そのような私ですから、この年令で逆の立場になった今、上記の聖句にあるように、隣人の徳を高め、どれだけ寛容な態度で人に接するかは、私にとって大きな課題です。
今礼拝の説教では、エステル記より、モルデカイがエステルを養育したところから、「建徳」の問題が語られています。自分の徳を高めると共に、隣人の徳を高めることは教会を建てることに結びついています。日常の考え、語る言葉、行動を吟味し、遜って進ませていただきたいと思います。

※本社は市の中心部にあり機械工具を販売している店で、仙台聖泉教会の隣にあります。それより海の方へ約5kmのところに工場があり、更に約5km行くと海です。今回の地震による津波は海から約3kmの所で止まりましたので会社は大きな被害を免れました。なおすべての数字は私の推測なので確かではありません。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)

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