同労者

キリスト教—信徒の志す—

回心物語

— ウィリアム・ケアリ <近代海外宣教の父> —


<本コラムは「野の声|木田惠嗣のホームページ:40人の美しい回心物語:
("40 FASCINATING Conversion STORIES" compiled by SAMUEL FISK (Kregel Publications)の中から、適宜選んで、毎週の週報に連載翻訳したものです。)から許可をえて転載。
http://www.eva.hi-ho.ne.jp/kidakei/
にアクセスすると元の文を読むことができます。>


 ウィリアム・ケアリ(1761-1834)は、古くから、「近代海外宣教の父」として知られており、その時代にあって、私たちが、地の果てまで、福音を伝えるために生きるよう努力を促した。彼の生涯の物語は、興味深いだけでなく、驚くべきものでもある。
 若い、見習い靴職人であった時、ケアリは、ラテン語、ギリシャ語、ヘブル語、フランス語、オランダ語を学び、十代のうちに、六か国語で聖書を学ぶ事が出来た。彼は、近代海外宣教の新時代を築いた器であった。彼は、聖書を、そのほとんどの部分を(六か国語では、完全に)調べ、東洋の40の国語・方言に翻訳した。その外にも、数多くの国語で、たくさんのトラクトや信仰書を著し、文法書や辞書も編纂した。彼は、その国の農業を発展させ、医療救援を行い、学校や大学を建て、蒸気機関・印刷機械を発達させた。彼は、聖ガンジス河に乳児を捨てることをやめさせ、夫の火葬の薪の上で、未亡人を焼き殺すこともやめさせた。
 「新・使徒行伝」の中で、A.T.ピアソンは、「十年間、彼は、冷笑とあざけり、遅鈍で無関心という最悪の敵意の矢面に立った;また、シドニー・スミスのウィットに痛めつけられ、ジョン・ライランドの超カルビン主義の厳しい叱責を受けた。しかし、聖徒がひざまずき、きらめく神の信号を見続ける時、大水も、炎も、彼の前進をとどめることは出来ない。無感動のスキュラ(ギ神;巨岩に住む6頭12足の海の女怪)と反感のカリュブディス(ギ神;海の渦巻きの擬人化された女怪)の間で、ケアリは、大胆にもインドに向けて舵を取った。他の人々が眠っている間も、彼は、つまずいたり、遅れたりすることは出来なかった。たとい、彼一人であっても、彼は出発しなければならなかった。」と書いている。 R.H.グローバーは、「世界宣教の発展」という著書の中で、ケアリは、「より高度な奉仕のために、自分自身を整えようと決心し、あらゆる時間を、古典の勉強と、幅広い読書のために利用した。恐らく、その才気の縦横さよりも、その不撓不屈の忍耐によって」、彼は、前述の五ヶ国語を習得し、「植物学と動物学に関する優れた知識を獲得した。クック著の『航海』という本の複写が手に入った時、彼は、非常に感動を受け、遠い国々へと、その思想や同情が向けられ、異教世界へ福音を伝えるという教会の大いなる責任と仕事を深く確信する事になった。彼の靴屋の店舗には、彼の前に大きな世界地図が掛けられていた…」これは有名な話で、しばしば、語り継がれてきた。 バプテスト派の人々はもちろん、同じバプテスト派である彼を誇りに思うだろうが、バプテスト派の人々ばかりでなく、他のグループの多くの人々が(前述のグローバーのように)、ケアリに最高の賛辞を送り、恩義がある事を認めている。さらに何人かの人々の言葉に注目しよう。
 英国国教会のW.ウィルソン・キャッシュは、際立っている。かれの「宣教師の教会」(ロンドン、CMS1939)を読むと、「ウィリアム・ケアリは、1792年に、『異邦人の回心のために方策を練る、クリスチャンの義務に関する研究』を出版した。この注目に値する論文の中で、ケアリは、広範な歴史を詳述した。彼は、南アメリカ、ニューギニア、そして多くのアジアの地域、ニュージーランド(クック船長の本で知った)、アフリカの必要について特別な注意を喚起した…彼の有名な処世訓は、今日に至るまで、人々に霊感を与え続けてきた:「神のために大いなる事を企てよ;神から大いなることを期待せよ。」その本を出版した一年後、ケアリはアジアに福音の大いなるクルーセードの道を開くインドへの航海にあった…。ケアリの到着は、新しい時代の到来を告げるものであった…ケアリとその他の人々によって練られた方針は、すべての宣教師は、一伝道者であるべきだというものだった。その時代、真剣な伝道者ではない宣教師になるなどということは、実際、考えられないことであった;不幸なことに、その時から今日に至るまでの間に、教会の伝道のわざが失ったものは非常に大きい。」
 最後に、有名な長老派のロバート・E・スピーアは、その著書「宣教師の原則と実際」の中で、「祈りとリバイバルの中から、ケアリとバプテストの教職者の小さな群れは、世界に福音を伝える仕事に取り組んだ。さらになお、ロンドン宣教師協会(LMS)は、ウィリアム・ケアリの働きの直接的結果として設立された…。」
 インドにおける初期の働きにおいて、ケアリがどのような状況に直面していたかを如実に語る次のような報告がある。(A.C.バウアーズ著「宣教師実録」F.H.レヴェルCo.,1937より):
 「ある日、ケアリが、ボートで帰宅途中、群衆が、水辺近くの材木を積み上げた周りに集まっているのを見た。更に注意深く見ると、その木の上に、死体がのせられているのがわかった。そして、そばを通りかかると、その死んだ人の、まだ生きている妻が、死人と一緒に、焼かれるところであった。彼は、このサティーと呼ばれる風習を知ってはいたが、実際に見た事はなかった。
ケアリが、彼らに、恐ろしい残酷な罪を犯させまいと、真剣に懇願するにもかかわらず、彼らは、見たくなければ、向こうへ行けと言った。ケアリは、その若い未亡人に、自殺行為を思いとどまるように訴えた。しかし、彼女は、それに答えて、踊ると、彼女の死んだ夫の傍らに身を横たえた。彼女が、死んだ夫の首に腕を巻き付けると、その親戚達が、彼らの上に、枯葉や枝を積み上げ、その上から、たくさんの解かしたバターを注いだ。そして、下にあるものをつるす二本の大きな竹を上に挙げた。そして、死んだ男の息子が、薪の山に火をつけた。ケアリは、たとい燃える炎の中で、何か音がしたとしても、群衆の叫び声や歌でかき消されてしまったであろうと記している。その時以来、ケアリの生涯の大きな目的のひとつは、サティという残酷な習慣を根絶することになった…33年の間、このひとつの改革をすることが、彼に求められた。少なくとも、7万人のベンガル女性が、生きたまま焼き殺されてきた。」
 それでは、この偉大な人物が、どのようにして、キリストをその様に現実的に知るようになったのだろうか。ラッセル・オルト著「ウィリアム・ケアリ」(ワーナー出版)とF・D・ウォーカーの著作から、その主要な物語を描いてみよう。
 オルトによれば、幼い頃の影響が大きい。「家庭を通して、また、教会の訓練を通して、彼は、聖書に相当、慣れ親しんだ。彼は、歴史的な部分に夢中になった。彼は、祈祷書も知っていたが、教会の教えの中に伝道的な雰囲気が欠けていたので、彼は、消極的な意味で宗教的であっただけだった。しかし、彼は、その訓練の結果、既成教会と不一致である人々、すなわち非国教徒と呼ばれる人々を軽蔑するようになった・・・。」
 「靴屋の徒弟として、年期奉公を始めたばかりの頃、満足を与えない信仰告白に、悩み始め、一層、無頓着で、無関心になり、いかがわしい友人達を選ぶようにすらなった。」
 ウォーカーは、これらの影響を強調し、更に続ける。「単純な敬虔さがその田舎の家庭を支配していた。エドマンドとエリザベスは非常に規則正しく教会に出席し、彼らの子供達も連れて行った。家庭において、彼らは聖書を所有しており、それを使っていた。その当時、聖書は、村でも数少なかった。なぜなら、英国聖書協会も外国の聖書協会も考え出されてはいなかったし、貧しい人々には、大変高価なものであったからです。『私は、幼い頃から、聖書を読むことに親しんできた』とケアリは、後年記述している。 その様な、敬虔な家庭に育った子どもは、少年といえども、ある宗教的な印象に捕らえられることは当然です。彼の宗教的経験は、彼自身に語らせるのが一番です。「私は、14歳になるまで、宗教的には、優れた環境の中で育てられたが、キリストの救いの概要については、全く知らなかった。この間、私は、宗教的な本を読んだり、幼い頃より聖書に親しんで来たことによって、心がかきたてられることは何度もあった・・・14歳になるまで、私は、真に経験的な宗教については、ほとんど聞いたことがなかった;選択ということに関しては、強いられて、外面的な儀式には、定期的に参加していたに過ぎなかった。」 私たちは、彼が、学校の仲間と一緒に、日曜日には、教会に出席している様を思い描くことが出来る・・・牧師の口から、厳かな「アーメン」という言葉がもれて礼拝が終わると、少年達は、解放されて、あっという間にポーチを抜け、村の草原まで脱出するのであった。今や、ウィリアムは、多くの少年達が、落ち着かなくなり、家庭の束縛をかなぐり捨てたくなる、「厄介な年頃」に差掛かった。彼は、「私は、誓ったり、うそをついたり、わいせつな会話をすることにふけっていた・・・。」と言う。
 「しかし、ウィリアム・ケアリにとって、この時期は、過渡期の一つに過ぎなかった。彼は、いつも清い泉から、十分に飲んできたので、村の馬が水を飲む池では、その魂の渇きを癒す事が出来なかった。彼の家庭の訓練と、彼自身の性質と、神の恵みとが、ともに、この少年の心に働いて、不敬虔な生活には満足する事が出来ないようになっていた。短期間、彼は、罪の楽しみに顔を向けていたが、次第に、彼は、それらに嫌悪感を感じ、愛想をつかして、離れた。」
 オルトは、その深まる危機について、こう語る:「彼よりも年上の年期奉公人の友人が彼の救いのためにやってきたのはその様な時であった。ジョン・ウォーは、彼よりも、三つ年上の神を知る若者であった。更に、彼は、ケアリに、立派な本を貸してくれた。ウィリアムは、彼が、非国教徒であったので、その真価を認めなかったが、この個人伝道の結果、彼は、うそをついたり、誓ったり、あるいは、他の罪を犯す事をやめ、もっと熱心に教会に通う決意をした。
 それにもかかわらず、若いケアリは、1シリングを着服し、その事についてうそをついたが、それが露見して恥をさらした。オルトは更に続ける:「彼の主人は、その失敗を赦してくれた(どうも、結婚したばかりの妻の影響であったらしい)。この事件は、ウィリアムに教訓を与えたばかりでなく、その経験のゆえに、彼の信仰告白までが変わった。そして、17歳と6ヶ月の時、彼は、自分自身を救い主へと明け渡した。ジョン・ウォーの個人伝道の努力に、他のいかなる人よりも、大いなる称賛を送るべきです。」
 ウォーカーは、その葛藤の背景にある幾つかの要素を描き出している。「若いケアリは、非国教徒を軽蔑しており、彼らの議論は、果てしなく続く白熱したものだった・・・・」
 「その仕事場での議論は、主に、形式的儀式に反対する心の宗教についてであったように見える。
ウィリアムにとって、その時代に、「経験的宗教」と呼ばれたものは、決して新しい概念ではなかっただろう。しかし、今や、その主題は、彼の注意を喚起した。最近のわがままな行動が、彼を悩ました。彼は、「次第に大きくなる不安と、次第に増して来る良心の痛み」を経験した。  非国教徒の集まる場所で、「ケアリの高慢な心は、深く感動し、ほとんど分からないうちに、彼の考えが変わった。彼の魂は、神を慕い求めるようになった。」
 非国教徒の集会に出席した結果、遂に、最終的で、完全な神への明け渡しをすることになった。オルトはその事を簡潔に、次のように語る。
「ひとりの救われたばかりのクリスチャンが、『ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。』というみことばを引用して、非常に心を引き付ける話し方で説教し、キリストへの心の完全な明け渡しを勧めた時、ケアリは、彼の考えを改め、非国教徒の列につらなる決心をした。」
 すぐに、あちこち歩き回って福音を語るケアリの姿が見られるようになった。一人の友人が、彼を捕まえて、次のように語ったという話は、語り草になってきた。
「ケアリさん。とても大切なお話があるのですが?」「何でしょうか?」とケアリは答えた。「そのように説教してまわることによって、あなたは、ご自分の仕事をおろそかにしておられます。もっと一生懸命仕事をすれば、すぐにうまくいって、繁栄します。でも、これでは、仕事をおろそかにしているとしかいえません。」と、その友人は言った。「仕事をおろそかにしているですって!」と、ケアリは、その人をじっと見つめて言った。「私の仕事は、神の御国へ行くためのものです;私は靴を修繕して出費をまかなうだけです。」
 私たちは、A.T.ピアソンの言葉をもって結論としよう。「少ししか教えられなかったが、彼は学識のある人になった;彼自身は貧しかったが、彼は多くの人を富む者とした;無名の人として生まれたが、他に見出せないほど高貴な人になった;主の導きに従うことをのみ求め、彼自身、主の軍勢を率いた。ケアリは魂への熱情を持ち、それゆえ、宣教に情熱的だった。自己犠牲は、彼の習慣であり、インドにおける彼の生活の全ては、神のために捧げられた。」