同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 聖書信仰-4 —

「けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(テモテⅡ 3:14-17)

 「神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」と書かれていますが、その「神の人」はどこにいるのでしょうか?
その「神の人」は、この文を読んでいる皆さんのことです。
 「すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられ」るためには、聖書によって「<教え>と<戒め>と<矯正>と<義の訓練>」を受けなければなりませんが、それを受けるための必要不可欠な条件があります。

「別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。耳のある者は聞きなさい。
・・・
良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」(マタイ 13:8-9,23)
「種蒔く人は、みことばを蒔くのです。」 (マルコ 4:14)
「御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。」(マタイ 13:19)
皆さんがよくご存じの、イエスがされた種まきの喩えです。
種は、今私たちが問題にしているみことば=聖書です。種が蒔かれる「地」は私たちの「こころ」で、「頭脳」ではありません。気づかないうちに、みことばをせっせと頭に詰め込んでいるかもしれません。
 このことについてイエスが示されたのは「子ども」です。
「ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。」(ルカ 10:21)
賢い者、知恵のある者は頭で受け取りますが、子どもは素直にこころに受け入れるのです。こころに受け入れることができるか否かは、へりくだったこころ、謙遜なこころを持っているかどうかで決まります。
 さて、聖書には全ての真理が示されていますが、今回は聖書が示している神・・神観・・について考えましょう。信仰は神をどういうお方と信じるかにかかっています。
神がどのようなお方であるか、その内容を網羅するには、神学の本を参照すれば、よく研究されたものがたちまち分かります。しかし、それでは頭の学習に戻っていってしまいます。
もちろんそれは無用なことではありませんが、そういう位置にあるものであることを分かっていなければなりません。
聖書を隅々まで研究しながら、こころでは神はいないといっている愚か者が自由主義神学者たちです。
「愚か者は心の中で、「神はいない」と言っている。」(詩篇 14:1)
と書かれてある通りです。

そこで、ここでは網羅しようとは考えないで、その一部でよいから神に関するみことばをこころに蒔いていただくことを目標に、詩篇にあるダビデの詩によって、彼の神観を学んでみましょう。その方法は単純で、<神観>を意識しながら、ダビデの詩を読むのです。「ダビデによる」ものであることが書かれている詩は、詩篇3-41、51-71、86、101、103、108、122、124、131、133、138-145などですが、書かれていないものにも、ダビデの詩であると思われるものがあります。

「あなたの指のわざである天を見、
あなたが整えられた月や星を見ますのに、
人とは、何者なのでしょう。
あなたがこれを心に留められるとは。
人の子とは、何者なのでしょう。
あなたがこれを顧みられるとは。」 (8:3-4)
ここでダビデは、創造者である神の偉大さとその前に立つ自分の小ささを<神経験>したのです。私たちも、「造り主である神が」このように見え、神の前に立つとき、自分が「何者なのでしょう」といっている、ダビデと同じ神経験を期待できます。
 一日中いつでも、神の臨在の前に立っていたと証言しているローレンスという人の談話と書簡が本として発行されています。この人の信仰経験の出だしはこうでした。
「ある冬の日、私は落葉して見るかげもない一本の木を見ながら、やがて春が来ると、その木に芽が出て、花が咲き、実を結ぶ・・と思いめぐらしているうちに、いと高き神の摂理と力とを魂にはっきり映され、深く刻みつけられました。そしてこの世のことはすっかり心から消え去りました。この恵みを受けてから、もう四十年たちますが、その時ほど神への愛を強く感じたことはないと言えるかも知れません。」
(「敬虔な生涯(改訂版)」栗原督枝訳、CLC出版、1992、p.8 から引用)

 ここでは「神はなんと偉大なお方でしょう」という<神経験>です。「神はなんとお優しい方でしょう。」、「神はなんと忍耐深いお方でしょう。」などと、様々な面がありますが、それを神経験として知るとよいのです。
「見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。」(ローマ 11:22)
 神の厳しさも神経験として知らされるかもしれません。