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—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-112  —

山本 咲


サムエル記Ⅱ 6章

 サムエル記は時間軸が正しく記されている。そこで何が行われたか。ダビデが何をしていったのかが書かれているのである。今日のところでは神の箱をエルサレムにダビデが持ち込んだときに起こったことが記されている。この時イスラエルはすべてのことが整って平安が訪れていた。だからこそダビデは満を持して、このところで神の箱を持ち込んだのである。しかし、そのあまりの喜びの中で持ち込んだ際、彼はきちんとした手順を踏まなかった。それゆえにウザが死ななければならなかったのである。ダビデにとって順調に物事が進んでいた時にこのことが起こった。彼はいかに驚いただろうか。神の働きをするものは、どのような時でもその働きを神の教えに従って行わなければ、このようなことが起こりうるのである。神は愛するからと言って自らが定めたことを簡単に覆す方ではない。だからこそ、神の愛を信じつつ、畏れて神の働きを成し遂げていくことが必要なのである。ダビデはこの時神のしもべとして働くために必要な大切なことを示されたのである。そのダビデの出来事の次に書かれているのはダビデの妻ミカルについてである。神を信じて王国をたてていくときにミカルはその王妃として不適切だった。ダビデはイスラエルの王として立っていくとき、自らがどのようにあるべきかをだんだんと悟っていった。当時、決して王という役職や働きが分からなかったわけではない。国の長はほかの国にもあった。しかし、イスラエルという神の国において王になるということの意味が違うということを彼はここで悟り始めたのである。そしてこれからその中に生きていかなければならなかった。いままでイスラエルが群れとなり、荒野を旅していたモーセまたヨシュアの時代、礼拝は一つの場所で行われていた。しかし、カナンを占領しそこに住み着いた後は、礼拝する場所を一つ所として定めてもすべての人がその場所に近いわけではないということから、自分にとって近い場所、都合のいい場所で礼拝を行うことが多くなっていた。だからこそダビデは、ここでイスラエルに契約の箱を持ち込むことで定められた一つ所に集まって神を礼拝するという命令を守ろうとしたのである。ダビデは契約の箱を携え上り、幕屋を建てていった。のちにこれが神殿になり、多くのものがここで礼拝を守るようになるのである。これが神の召しであり、神の御計画であった。だからこそ、ダビデはこのことを神の教えに従い行っていかなければならなかったのである。このことによって神の祝福は一つ所に集まって礼拝する者たちに与えられたのである。しかし、ダビデの妻ミカルはその喜びを共に分かち合うことができなかった。価値観の違いがこの出来事を引き起こしたのである。ミカルははじめ心の中で思うことにとどめていた。しかしそれはいずれ、ダビデに直接言葉にして表すものになり、それによって彼女とダビデの関係は決裂していったのである。その事実を私たちはミカルにその後子どもが与えられることがなかったという現実から読み取ることができる。神を畏れ信じ、その御旨を捉えるということは、神の御計画を成すうえで重要である。それを私たちは自らの信仰で行っていかなければならない。しかしそれがいつの間にか、自らの中でやらされているような気持になっていることや、信仰がないのにもかかわらず行っているようなものになっていると、人間は気が付かないうちにそこに本心を表してしまう。いつのまにかそう考えることすら当たり前になり、このミカルのようになってしまう。神を心から畏れているか、その教えに生きているか問われるときは誰にでもやってくる。だからこそ、私たちは日ごろから自らに問い、その価値観を常に持ち続けていかなければならないのである。それは私たちに対する神の恵み、祝福を逃さないことにつながっていく。なお励みつつ生きたく願う。


Q:サウルは世から見ていい王様だったが、神に従いきれなかったということを以前お話になっていましたが、私もそのように信仰者として踏み出せないときがあるのですが、どのようにすればよいのでしょうか。

A:聖書の記事を注意して読むときに直接的な答えが書かれているわけではないが、自らがどのように生きるべきか、導かれていくべきかが書かれている。今回の記事から読み取れることは、「ダビデという人物がこれまで順調に物事を進めていたのにもかかわらず、本来担いでいかなければならない神の箱を車に乗せ、牛にひかせたことで問題が起こり、神の怒りを引き起こしたということである。ダビデはそれによって神の箱を一時留め置いたが、オベデ・エドムの家が神の箱によって祝福されたのを知り、神の箱をエルサレムへ運び上った。」ということである。ここに神の箱を担ぐものについての描写や、どのくらいの、どのような人たちがいたのかということは書いていない。つまり問題があったのは神の箱を乗せた車を牛にひかせ運び出したということなのである。他にもそのようなことが分かる描写として、ダビデがどのように神の箱を扱ったのかということもわかる。「オベデ・エドムの家にそれを回した」の「回した」という語からいかにも厄介なものを他人に渡すような扱いであったことも読み取れる。そのように聖書は包み隠さず、知ろうとして読む者にはこれだけのものを示しているのである。それはイスラエルに対する信仰者の基準であった。私たちの信仰者に基準は厳密にはない。こういうことができたら一級とか、献金がどれだけ捧げられれば一流とかそのような基準はない。だからこそ、どれだけ私たちが本気になってこのようなところから信仰者のあるべき姿を考え、取り組んでいくかが重要なのである。ダビデは探りつつ、神に仕える者として自分を変えていった。それによって神と共に生き、近づいていこうとしたのである。ダビデは3か月間思い悩んでいた。しかし、その期間を通して彼もやはりこの神の箱を運び上る必要があることを思い知ったのである。私たちにも個人の違いはある。何が賜物で何ができて、逆にできないかということは大いにある。しかし、ダビデのように神に近づいていこうとする姿勢が必要なのである。時には批判する人も出てくるかもしれない。ダビデにとってのミカルのように。ミカルはダビデにとって執着の対象であったことは確かである。だからこそここでまたダビデを試すように彼女が彼の神に対する行為を否定している姿が描かれている。私たち信仰者にも訪れるこのような出来事に対して聖書ははっきりと私たちがどのように対峙していくべきかを描き出している。ダビデは執着しているミカルをはっきりと拒絶し、揺らぐことなく立っていった。私たちも信仰者としてどのように生きるべきか。たとえ神に突き放されるような出来事が起ころうとも、それによって怯み、倒れてしまうものではなく、そこから更に神を求め、その心を探り、共に生き続けたいと願い挑んでいくものでありたく願う。神は近づこうとする私たちの姿を見て、必ず喜んでくださり、そこに成長を与えてくださる。なお信仰者としての道を探り続けたく願う。


Q:神の箱とはイスラエルの民にとってどのような存在だったのですか。偶像礼拝とは違うのですか。

A:もちろん偶像とは違うものであり、この箱の中には十戒が入っている。この箱自体がどのようなものだったかは聖書に書かれている通りだが、このとらえ方について何が正解かというものはなく、様々である。神の箱を戦いに持ち込み、勝利を得ようとしたが、負けてしまったこともある。神の臨在であることは確かだが、それをどうとらえるかという扱いは難しいところである。信仰の営みの中にはこのように何が正解かということが隠されていたり、そもそも正解というものがないことが多くある。だからこそそれに対して私たちの回答や解釈も多様化してきている。それは現在の世も同じである。様々なところで多くの考え方、意見があふれているのである。しかしそれは一面、他者との分裂を引き起こしている。なぜなら考え方が一致できなくてもよいという世界だからである。キリスト教も多様化している。しかし、このままでは考えを整え、まとまっていくことができない。だからこそ、神は新約の時代に教会を与えたのである。多様性はもちろん教会内でもある。しかし、それぞれの教会の中で大切にすべき指針を決め、大切にするべき教えの中で、一致していこうとしている。どれだけ一致させられるかが重要なのである。個人の考え方ももちろんあり、神との交わりを大切にすることは必要である。しかし、それにばかり偏ってはいけないのである。その交わりの中で信仰者同士の交わりによって自らを培い、考え方を統一し、その所でともに生きることが大切なのである。これが正解というものを持っていれば神はいらない。流動的な世の中だからこそ、このことが生きるために必要なのである。
私たちは正解をくださいと祈るのではなく、神の御旨を生きるものとさせていただきたいと祈ることをなお忘れずに取り組ませていただきたく願う。


Q:20節のミカルの記事でダビデがどのように価値観の違いを持つ彼女に対応したかが描かれていますが、私たちはどのようにして、価値観を一致させていけばよいのでしょうか。

A:ダビデは伴侶者が多くいたため、今のあなたと同じではない。王政と家族はどのようにして統一させていくかがとても難しいのだ。ミカルの価値観はそのままサウル家の価値観を表していた。以前語ったようにサウルは有能な人物で彼が神に選ばれたことは確かである。彼にはそれだけの素質があった。しかし、彼には神の国の王として大切な部分が欠落していた。だからこそ、彼は死に、サウル家はその役割から外されなければならなかったのである。しかし、言うならば、息子のヨナタンには神の国の王としての素質と、それだけの信仰があった。それでも彼は、自分が王になるのではなく、ダビデが王になることを望み、自分は父親と滅びる道を選んだのである。ミカルはその意味でサウルの価値観を持っていたのだ。だからこそダビデと様々なところを共にしながら、サウル家の資質を捨てきれないミカルは残念だが失墜してしまった。あなたの家はどのように追及してお互いの価値観を合わせていくか。お互いが同じ神を信じ、大切にし続けていくというところにいられるかということなのである。
このような問題も互いに愛することで成り立っていく。相手に対する尊敬をもって、互いの価値観を合わせていくのである。もちろん愛は与えるものでただ相手に何かをしてもらうということではないが、互いに愛し合うことでその関係を作り上げていくことができる。愛するということは大切だが、愛されるということもとても大切である。なぜなら相手に自分を愛してもらえるように努力する中で相手がどのような価値観を持っているか、どのようなところを見ているかなどを知ることができるからである。相手が見ていないところ、重点を置いていないところをいくら着飾っても意味がない様に、何を考え、見ているか、そこに意味や価値観を見出しているかを愛してもらおうとして考えていくことで本当に必要な部分も知ることができるのである。
神は人間に干渉されると変わるという性質を与えてくださった。よくもなるし、悪くもなる。
神は夫婦で一心同体であることを語っておられるが、それは相手の成長が自分の成長であり、自分の成長が相手の成長になることを示しておられるのだ。夫婦のどちらか片方だけがどんどんと進んでいけるのではない。片方が躓けば、同じようにもう片方も躓く。互いに補い合いながら成長しようと歩めば、多くの成長がともに与えられるのである。人間は個人でいると偏ってしまう。そこを統率することができるのが夫婦であり、それによって最善がなされ共に成長していくことができる。そうして夫婦は祝されていくのである。


Q:ダビデの責任の下ウザが打たれたのですが、ウザにはどのような罪があったのでしょうか。

A:それは起こりうる。私の責任下で行われていても、実際に何らかの事故などが起こった際被害が誰かに行くことがあり、誰が悪いのかという分析をしなければならないときもある。しかし、本当に誰かの責任というよりは一つの小さな出来事が重なって大きな被害になるということもある。だからこそ、私たちは侮ることなく、自らの危機管理を行っていかなければならないのである。しかし、それを注意していても事が起こってくることがある。その時、私たちはその出来事をどのように捉えるべきか。恐れてやめていけば、何もすることができない。リスクだと考えてすべてから離れてしまえば、力がそがれ何もできないということも起こってしまうのである。先ほど語ったように何が正解かというのは分からない。しかし、私たちはそのことを考えながら、神を信じ、ことを行っているのである。今行われているこのサマーキャンプも危機管理という意味では無くしてもおかしくない行事である。しかし、それでは、何の恵みもないで終わってしまう。だからこそ私たちは多くの対策を打ちながら、ことを行っているのである。
ウザの問題は事故なのかというと、事故である。神の箱はやはり担がなければならなかった。それは元を探れば、神の箱に対する敬虔な姿勢でいなければならないという教えがあるのである。私たち信仰者は神に不敬であってはならない。そうでなければこのような事故が起こるのだということを表しているのである。私たちの一番の事故は何か。私たちの子どもたちが信仰者にならないということである。神に対する不敬である。もしかしたら、神の箱を牛に御させていても事故は起こらなかったかもしれない。無事にエルサレムまで運び込むことができたかもしれない。しかし、事故は起こってしまった。ダビデはこの出来事で神に対する不敬ということを知り、経験したのである。あなたは子どもたちと土曜日に教会に来て掃除を行っている。それはあなたの敬虔な姿勢である。まだ小学2年生と幼稚園の年長であるあなたの子どもを連れてきて掃除を手伝わせるなんて早すぎるのではという人はいるだろう。しかし、あなたは子どもたちを連れてきて、そこで幼いうちから神に仕えることを教え、その意味と、祝福を示している。このような姿勢が大切なのである。ダビデですら、この様なことが起こった。つまり人間には起こりうる可能性が限りなく高いことであると考えるべきなのである。だからこそ、注意していくことが大切である。そして、私たちはイエス・キリストに相対するものを侮ってはいけない。慎重に扱わなければならない。私は子どもが与えられてから子どもたちがどのように成長していくのか、神の道に歩む子どもになるだろうかということを恐れた。しかし、神が私に示されたのは私が子どもたちと関わっていく時間は大いにあることであり、だからこそ、恐れて戸惑っているようではいけないということである。
あなたの家はこのサマーキャンプ期間中しっかりと夫婦の役割が機能している。あなたは2泊3日全日程を子どもたちと泊まることができている。また、集会がこのキャンプ場で行われるときは奥さんがおじいさんとおばあさんを車に乗せて、連れてきている。あなたの奥さんはお嫁に来たばかりの時「石巻しか運転できません。仙台の街中なんて」と言っていたことを私は覚えている。しかし、今では二人を乗せて、こんな山奥のキャンプ場に来ているし、細く暗い道のりも運転してきているだろう。それは言うほど簡単なことではない。家庭の中があなたたち夫婦の働きによって成り立っているのである。なお取り組んでいってほしい。


Q:今周りの愛するものが増え、それと同時に取り巻く環境との関わりも、家庭と仕事場、子どもの保育園、教会などと増えてきました。それによって自分の母親としての力のなさに落ち込むときがあります。信仰的に気持ちを保つためにはどのようにすればよいでしょうか。

A:男性か女性かということにその違いもあらわれる。あなたが母親として生きようとする中で、不安や、体調的に大変なことも出てくる。私も夫婦の間で彼女が不安に思っているときは「大丈夫だから、私が責任を取るから」と声をかけ、夫としての務めだと思いそこを乗り越えてきた。あとから冷静になった家内が「本当に何かあったらどうするつもりだったの」と聞くと「何とかなるよ」というような程度の考え方だったが、実際そうやって彼女の不安を取り除きながら、その所を乗り越えてきたのである。その所で女性側が求めているのは確かな答えではなく、寄り掛かれる、頼れる存在である。それが男性側の役割なのである。ただ、そのような夫婦の関係を成立させていかなければならないのである。そのような事態であっても、「自分でどうにかしな」というように言われてしまわないように、もちろんすべて奥さんのせいとは言わないが、関係を築き上げていかなければならないのである。だからこそ、普段の関わりの中で、旦那さんが疲れているようなことがあったら、支えてあげるなどしながら、その関係を常に築き上げることが大切なのである。話を戻すが、そのような一番大変なところを乗り越えて冷静になって初めて信仰が機能する。信仰はベースを作るものなのである。だからこそ本当に危機に直面しているときにはなかなかすぐに「信仰」と考えられない。なぜならその問題に立ち向かっていかなければならないからである。冷静になったときにベースを整え、互いに信仰の価値観をすり合わせながら、その関係を豊かに築いていくのである。あなたたちの夫婦関係はこれからである。今は一人目の子どもで経験したばかりだからこそ、安定しないことや、不安に思うこともあると思う。しかし、そこを超えていけば必ず経験としてあなたたち夫婦の中にそれが残って、次の子の時にはこの程度なら大丈夫と判断できるようになって、必要以上に大変に思うことも減ってくるものである。ただ、お互いの距離は常に近くにあるようにした方がいい。片方が先をいきすぎてもう一方が置いていかれているようではいけない。ましてや、先を行っていることを喜んでいるようではいけない。夫婦二人で一心同体としてお互いを気遣いあいながら共に成長しつつ、生きていかなければならない。生活を乱していく原因は夫婦が信仰をもって相手を気遣えずにいるときにおこるものである。そのことを忘れずに互いを愛し合いつつ、共に生きることが大切なのである。

(仙台聖泉キリスト教会会員)