同労者

キリスト教—信徒の志す—

わかふうふ、わかもん、いっしょに学ぼっ!

— 6月1日月曜日朝、妻の一言 —

石井 和幸

「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、  あなたの恵みとまことのために、  栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。」(詩篇 115:1)

  私たちの子どもたちが通う仙台市の小学校は、新年度を迎えても新型コロナウイルス対策のため授業が出来ず、5月末まで休校となりました。通常、春休みや夏休みといった期間中、平日の場合子どもたちは妻と一緒に会社に来て、工場事務所の空き部屋で過ごしていますが、今年は5月を迎えるときに、「さすがに毎日子どもたちを会社に連れてくるのも大変なので、週2~3日は自宅でのリモート勤務にしてほしい」と妻から要望があり、その通り5月を過ごしました。
 6月1日から小学校が本格的に再開し、朝、出社して早速妻が、「ちょっと提案があるんだけど、小学校が再開したとはいえ、まだ予断を許さない状況でもあるし・・・」 と話しを始めるので、私は(まあ、6月も妻がある程度リモート勤務になるのは、時節柄止むを得ない)ととっさに覚悟しました。ところが、妻は続けて「6月からはあなたがリモート勤務してみない? 社長には了解をとって、もうあなたが自宅で仕事できるように、ノートパソコンを1台注文したから」と私が予想していない一言を発したのです。私は一瞬ぽかあんとしてしまい、「ちょっと待って」と答えてから、かなり前に山本嘉納牧師に相談したことを思い浮かべました。・・・従来妻は朝、子どもたちを学校に送り出してから、家事を済ませて、私がいる工場に駆け付けます。自宅(本社)にて社長と打ち合わせや手続きをしてから工場に来るときもあり、朝、妻の到着がいつになるのか、いつも私は心をやきもきさせていました。私はかつて山本先生に「何とか妻が朝9時までには遅くとも来てほしいと思って声をかけているんですが、なかなか難しいですかね?」と相談し、先生は、「じゃああなたと奥さん、(勤務形態を)逆にしてみたら?あなたが朝自宅から子どもたちを送り出せばいいんだよ」と答えられたことがあったのです。そのことを私は思い出しつつ、妻に提案のねらいを聞きました、すると、妻は、「先週社長や税理士との話にもあったように、あなたにはもっと外回り・・・営業をしてほしい」とのことでした。また、得意先K社の担当を私から妻に変更する提案もされました。
 私「もしかして牧師先生方に相談した?」
 妻「相談した。いろいろ仕事上の悩み、問題を聞いていただいての結論です。」
 私「朝礼は誰がリードするの?」
 妻「当然私がやります。工場の鍵も朝私が開けます。」
 私「工場の管理はどうするんだ、材料の手配や職人との折衝・打ち合わせ・・・」
 妻「それをするために朝早くから出社するわけだし、何かあればあなたにメールで図面や写真を送ったり、連絡をとってあなたの助言を受けることができるから。とにかくあなたには子どもたちを無事朝送り出してほしい。あと、洗濯だけはお願いできないかな?」

 ・・・私には拘りがありました。大学を卒業してから今に至るまで、培った経験と知識、それはすべてこの工場で働くために必要なものであり、私はそれを得意としている・・という自負がありました。しかし必ずしもそれが好転しているとは言い難く、常に職場においても妻の横で呟いて仕事をしている状態でありました。営業は以前勤めていた会社で経験がありますが、外回りをしてつらい思いをしたり、苦手なことに取り組んだりするよりは、工場の事務所で得意げに仕事をしていたほうが良いという思いも正直ありました、K社についても、「K社の担当は私しかできない、あなたは口出ししないでほしい」と何度も妻に伝えていました。けれども、そんな拘りを牧師先生はすべて承知していて、愚痴をこぼしている私に「あなたはなにを拘っているんだい?それは手放しても、託しても良いものではないのかい?」と声をかけられたこともありました。しかし、私は今まで手放すことが出来ませんでした。
 そんな矢先の妻からの提案、私は彼女がそれを「主にあって変革しようとしている手法」として主の前に告白していることを悟り、受け入れることにしました。自宅勤務用ノートパソコンのいろいろな設定を妻にしてもらい、業務の引継ぎを済ませて6月8日の月曜日からついに、朝礼の時間に私は自宅にいる生活が始まりました。それからもう3カ月が経とうとしています。子どもたちの生活に対する両親の協力、特に朝食、朝の支度をリードし、学校から帰るとおやつを用意してくれる母の姿に感謝を覚えます。妻を中心に、工場の職人が一致団結している姿を見させていただき、このことが神からの摂理であったことを教えられました。
 神は、私に対しては、たった一つのことを示してくださいました。それは、「自分のために生きるのではなく、隣人のために生きなさい」という課題でありました。今まで色々なところに視点が動き、心を揺るがされ、そのわりに対策を棚上げにしてたじろいでいた私に対する神からの答えであったと思います。妻に対しては感謝の一言しかありません。私がかつて毎日呟きながらしていた仕事を、信仰をもって取り組んでいる姿があります。だからこそ、なお私も必死になって、日々神から示されたこの一事に取り組み、結実を目指して祈りつつ励んでいきたく願っております。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)