同労者

キリスト教—信徒の志す—

回心物語

— ウィリアム・ボーデン <アイビーリーグの信仰のヒーロー> —


<本コラムは「野の声|木田惠嗣のホームページ:40人の美しい回心物語:
("40 FASCINATING Conversion STORIES" compiled by SAMUEL FISK (Kregel Publications)の中から、適宜選んで、毎週の週報に連載翻訳したものです。)から許可をえて転載。
http://www.eva.hi-ho.ne.jp/kidakei/
にアクセスすると元の文を読むことができます。>


 ウィリアム・ボーデンは、多くの若者がうらやみ、夢見るような、あらゆるものを持っていたように見える。無尽蔵の富み、強健な体、優秀な頭脳、魅力的な人格、指導力、そして、それらの中で、決して甘やかされてしまわず、キリストのうちに深く留まる聖別の光をあらゆるものの上に反映させており、遂には、彼自身の生涯を、イエス・キリストを伝えるために献げた。
 ハワード・テイラー夫人によってかかれた「エール大学のボーデン」という本は、多くの人々の間で、人気があった。
 その伝記は、次のような言葉で始まる。「ウィリアム・ボーデンの死が、エジプトから外電で伝えられたとき、悲しみの波が世界中を覆ったように見えた。極めて珍しい要素をひとつに集めた彼の生涯について伝えないアメリカの新聞はほとんどなかった。…」20代半ばの青年が、ロンドンの下院議事堂から中国の北京の国会議事堂に至るまでの称賛を巻き起こす様をだれが想像できるだろう。
 学生時代、ボーデンは、静かに静養したり、友達と豪勢に遊んだりするために、設備の整った大学の寄宿舎から逃れて、町でも海岸の邸宅で召し使に囲まれて生活することも出来た。
しかし、彼は、その所有するヨットの上では、船長に代わって、舵を取ったり、檣頭(帆柱)に登って索具を操ったり、エンジンの修理をしたり、あるいは、ゲストに、食事を作ってもてなしたりして、どんな事でもする人間であることを、実演して見せた。
 彼は、大学・大学院時代を通して、最優秀学生であったし、優れたスポーツマンで、フットボール、野球、テニス、レスリング(彼をフォールする事のできた者はほとんどいない)をはじめ、大学選手権優勝のボート部の一員でもあった。彼はまた、楽しい人物で、いたずらを楽しみ、よく、寄宿舎の「ラフ・ハウス(大騒ぎ)」に加わった。別の一面では、ニューヨーク・タイムズや、ウォール・ストリート・ジャーナルを読む時間を確保していた。(多分、夫に先立たれた母や、妹のために、家族の財産を、彼が管理する必要があると感じていたからでしょう。)人気者であった彼は、非常に多くの責任ある職務に選任されながら、立派な成績を収めるので、人々は、彼が、クラスにおいて一番を維持するために、いつ勉強しているのかと不思議がった。 -しかも、彼は、神へ生活のすべてをささげていたので、日曜日には決して勉強をしなかったのです!彼は、毎日、聖書を手にした静思の時から始めた(もてなすべき客のあるなしに関らず)。また、終日には、いくつかの祈りのサークルに、忠実に参加した。そのいくつかは、彼自身が始めたものだった。
エール大学に在学中に、彼は、ダウンタウン・レスキュー・ミッションを設立し、活動した。彼は、素晴らしい働き人であった。
 彼は、選ばれて、1910年のエジンバラ海外宣教会議に、全期間参加するために、短休暇をとったけれども、同じ、高い基準をプリンストン神学校(いくつかの古代言語を習得するため)時代にも貫いた。サムエル・M.ツヴェーマー博士は、カイロ時代に、彼といっしょでしたが、「運動選手の体格と、学者の頭脳と、神の真理に関する神学者の理解力と、幼い子どもの心とを併せ持った、信仰と愛に満ちた一人の人がいた。」と記した。
 青年ボーデンは、その様な穏健で、バランスの取れた判断や、組織したり、管理したりする能力を発揮し、任命された事柄に、他の様々な事柄の中にあっても、忠実に献身した。
彼は、神学校在学中に、すでに、シカゴにあるムーディ聖書学校の評議員;ニューヨークの全国聖書協会の理事-それを構成する委員会の議長;中国奥地宣教団(C.I.M.-当時、最も大きな宣教団体)の北アメリカ評議会のメンバーでもあった。ムーディ聖書学院長であるジェームズ・M・グレイは、学院の教理基準宣言の草案を作るよう依頼した。シカゴのムーディ教会でのボーデンの任命式は、「新聞紙上を大いににぎわせた」。ある新聞は、注目を集めたに違いない式の進行具合を、第一面いっぱいに、その時に、ぴったりの讃美歌(「驚くべき十字架を見下ろして」)を引用して印刷した。青年ボーデンは、非常に気前よく、クリスチャンの働きに、大金を注ぎ込んだけれども、決して、自分の名声を求めてそうしたのではない。たいてい、匿名で、それを行っていた。ある団体は、彼を、「組織の将軍でありながら、奉仕においては、いつも一兵卒として快く働いた。」と評した。
ボーデンは、時間や財産を宣教団体に快くささげたばかりでなく、彼自身の命さえも惜しまず、世界中で最も困難な中国北西部のイスラム教徒の伝道に、献身した。その第一歩は、カイロにおいて、アラビア語と、イスラム教について学ぶことであった。彼は、そこで、突然、死病にかかった。しかし、彼の人生は無駄にはならなかった。彼の人生は、感動を残した。伝記には、彼の母に関する、かなり多くの記述が含まれ、彼女が、彼の人生に強く良い影響を与えた事が示されている。神が、ボーデンの生涯において、そのすべてに支配を及ぼすことになった、始まりは何だったのだろうか。それは、何もセンセーショナルな事ではなく、ただ、福音の要求に従順であるということであった。伝記は、「ウィリアムが、7歳の時、ボーデン夫人は、彼の人生に深い影響を与える新しい霊的経験に入った。
以前は、献身的な母であったが、今や、熱心で喜びに満ちたクリスチャンとなった。彼女にとって、キリストは現実であり、彼との交わりは、普通では考えられないほどの満足を与えた。」と記す。彼女は、シカゴのムーディー教会において、活動的な信者となった。
「その結果は、彼女の息子の人生に、非常に顕著に現れた。彼は、その霊的確信の強さと理解力を、ほとんどその母教会に負うている。」
 「彼は、そこで、キリストを公に告白する第一歩を印した。ある日曜の朝、彼は、その母の隣に座って、当時、その教会の牧師であったトーレイ博士の説教を聞いた。博士は、聖餐式の招きの言葉を述べた。『ウィリアム、あなた自身で、この事を考えるときではない?』と彼の母がささやいた。『考えて来たよ』と思いがけない答えが返ってきた。『聖餐式のパンとぶどう酒が手渡されたとき、ボーデン夫人が驚いたことに、ウィリアムは自分に渡されたかのように、すばやくそれを受け取った。』自分の質問をこのように理解されてだいぶ戸惑ったけれども、ボーデン夫人が、この問題をトーレイ博士に相談すると、博士は笑って、「その件について、明日、息子さんを私の所に寄越して下さい。」と言った。
 「彼は、年若かったけれども、トーレイ博士の質問に対する彼の答えは、彼には、既に、聖餐式にあずかるのに十分な備えがあることを証明した。そこで、その対話を通して、彼は、正規の手続きを経て、教会に迎えられることになった。」  大学に入る前、世界一周旅行の途中で、今度は、ロンドンにおいて、ボーデンは、トーレイ博士のメッセージを聞き、彼の母親に、次のように書き送った。「トーレー博士は、『新生』について語り、それに関する人々の愚かな考えの幾つかに言及されました。博士の説教は、物事を整理するためのものでした。私の新生についての概念は、幾分ぼんやりしたもので、それについてしっかりとした確信があったわけではありませんでした。しかし、今は持っています。聖書の箇所はヨハネ3:6で、トーレー博士は新生しているかどうか、御霊によって生まれたかどうかの五つの証拠を挙げました。…それで、私たちは、イエスを信じ、彼を受け入れるなら、すぐ、神の子となる力を受けるのです。」
 ボーデンにとってその結果は確かなものであった。だからこそ、多くの人々が、神に感謝を捧げて来たのです。(終)