同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— 神に近づく —

野澤 睦雄


「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」 (ヤコブ4:8)

救世軍の粟飯原先生ご夫妻の救いの証を読ませて頂きました。波乱に満ちたお二人のこれまでの生涯に、神がお二人を導き恵みを下さったその内容に神を崇めました。
 粟飯原先生が、私の救いの証を聞きたいとのことでしたので、この誌面を借りて私の救いの証をしたいと思います。

 私の父、孝は、柘植不知人牧師がいた落合伝道館で救われました。父の兄弟姉妹は8人でしたが、その中で、兄、義雄(私からは伯父)と妹、貞子(私からは叔母)の三人が救われました。家のすぐ近くにあった東京都渋谷区笹塚の日本宣教会、相田喜介牧師の教会に移りました。どんどん教会が増え、川崎に出来た教会を伯父、義雄が献身して牧師となり牧会していましたが、父もその教会にいました。母はその川崎教会で救われ、父との結婚にいたりました。私は1942年に川崎市で生まれました。
 私は自分が母の胎にいたときから今に至るまで神に愛されてきたことを疑いません。母はこう言っていました。「お前がお腹にいたとき、それはそれは不思議な喜びに満たされ続けたんだよ。」と。私が三歳の時に、太平洋戦争の敗戦をむかえました。その時父は川崎市役所に勤め、兵事係をしていました。その年、1945年の内に、市役所を辞め、国が募集した岩手県北部の、奥中山の開拓農家となることにしました。その年の冬をそこより少し北にある町で家を借りて過ごし、1946年雪解けを待って、奥中山に移り住みました。
地面に直接柱を立てた、掘っ立て小屋でした。屋根はまだトマがかけられているだけで、夜になると家の中から星が見えました。やがて茅を刈り集めて屋根を茅葺きにしました。はじめは壁もなくむしろがぶら下げてあるだけでした。壁も葦(よし)の茎を井桁(いげた)に編んだものに粘土を塗って造りました。そして電気がありませんでした。電気が引かれたのは私が中学を卒業し家を出た後でした。夜になると寝るしかないのでした。その状況の中で、寝るときにはいつも父が聖書の話をしてくれました。父は話が上手でした。説明でなく、実況放送のようでした。例えばダビデとゴリアテの戦い、目の前でそれがおきているようでした。父の聖書の話は非常に正確であったと思います。もちろん全部を話すのではありませんが、聖書に書かれていないことを言わないのでした。聖書を注意深く読んでいないとできないことで、今になってその大切さが分かります。両親の信仰によって私は幼いときから、神のおられること、聖書は真実の書であること、イエス・キリストが救い主であることを信じ、それを決して疑うことなく今に至っています。不信者の世界に育った方々には不思議に思われるようです。それらの方々にはイエスを救い主と信じることと救われることは同時のことですから。しかし、私はその時はまだ救われていませんでした。
 集会は家拝が中心になりました。日本キリスト教団の教会があるのですが、父たちは何度かそこに出席してみて、ここでは信仰を維持できないと判断していかなくなりました。集会は子どもも全員大人と同じように座りました。
 両親は、貯えを銀行預金として持っていましたが、戦後のハイパーインフレのため全部紙くずとなりました。それで、お金のないまま山で・・畑ではありません、自分で開墾して畑をつくるのです。手作業でするのですから、それには大変な労と時間がかかります・・暮らす状態になりましたから、非常に貧しい暮らしをすることになりました。高校は盛岡一高にいきました。寄宿舎があったので家からの通学でなく、そこに入れて貰いました。母が竹で編んだ行李(こおり、梱)に衣類をいれてくれ、それ一つを持って家をでました。それ以来、時々帰省はしましたが、家に帰って住むことはありませんでした。
 高校生になって1年、教会にはいきませんでした。2年のとき1年生の寮生から誘われて日本キリスト教団の教会に出席しました。土曜日午後は宣教師のバイブルクラスがあり、そのあと会堂の掃除をしました。
その時から卒業するまで、バイブルクラスと日曜日午前の礼拝にほとんど欠かさず出席しました。
高校3年秋に家に帰る機会があり、その時をとらえて父が自分の救いの証をしてくれました。私は大変感動し、自分もキリスト者になる決心をしました。どうすれば救われるのかも分かったのですが、その時私は悔い改めることができませんでした。それで、自分の決心にとどまりました。そのすぐ後クリスマスに洗礼を受けました。それでもなお救われていませんでした。
 大学は東北大学で、仙台に来ました。父は私が仙台で救いと潔めを伝えている教会にいけるようにと、仙台まできて今私が所属している教会を探し、仙台にいったらその教会、当時のイムマヌエル仙台教会にゆくようにといいました。私は仙台にくるとすぐ何回か礼拝に出席しました。
 下宿先は西多賀にありそのすぐ裏手の小山が三神峯公園という公園でしたが、入学した年の5月の連休に、陽気に誘われてそこにいきましたら、かなりの人数のひとびとがフォークダンスをしていました。その中に顔見知りの男(学科は違いますが同じ工学部の同級生)がいて、私を見つけ私を誘いました。それで私はフォークダンスのクラブに入りました。私はすっかりフォークダンスにのめりこんでしまい、私の生活はフォークダンスを中心に回るようになり、日曜日はフォークダンスの日になって教会から足が遠のきました。
 1年生の、そろそろ冬を迎えようというころ、心に虚しさを覚えるようになりました。楽しかったはずのフォークダンスも一時過ごすだけで、虚しさを払拭できませんでした。
年があけて3月末近くになって、私は教会の礼拝に出席しました。そうしましたら、私は自分が神の前に汚れた者、ここに座るには相応しくない者であることに気づきました。
 4月はじめの礼拝に、牧師はこういう説教をしました。「あなた方は神に近づく道か、神から遠ざかっていく道か、いずれかを歩んでいる。中間はない。」と。私は自分が神から遠ざかる道を歩んでいると理解しました。そして、神に近づく道を歩みたいと思いました。神に近づくところは教会の集会にあると考え、まず自分にできるその集会出席をしようと思いました。私はまだ盛岡の教会の会員として席がありましたから、こちらの教会に出席させていただくのには、そのままでは不具合だと思いました。それで教会を転会させていただこうと思いました。
1962年5月12日(土曜日でした)、今にして思えば、順序が違うのですが、まず盛岡の教会に行って、「仙台の教会に出席させていただきますので、仙台の先生に転会状を送ってください。」と頼みにいきました。そのまますぐ仙台に戻ってきて、夕方になりましたが、教会に先生をお訪ねしました。
仙台駅から教会まで歩く道すがら、ささやく声がありました。「もうだめだから、行くのをやめなさい。」
もう一つ声がありました。「まして、天にいます汝らの父は、求むるものに善きものを賜わざらんや。」私は後のことばを、神が私にそう仰っていると信じました。
 先生をお訪ねし、「この教会に相応しい者ではありませんが、先生の仰っていた、神に近づく道を行きたいので、集会に座らせてください。」とお願いしました。救われる道は、神の前に罪を告白しイエス・キリストの十字架を信じることによりますが、そのときはただ、へりくだって教会の転会と集会に出席することをお願いしただけでした。後で人への謝罪をしました。先生は快く受け入れてくだり、「汝ら我を選びしにあらず、我なんぢらを選ベり。」とのみことばを引用して祈って下さいました。それと同時に、神は私を救いに入れて下さいました。そのときは喜びに満たされ、足が軽くなって帰っただけで、自分の身に何が起きたか分かっていませんでした。
神はその時、私の罪を赦し、新生のいのちを下さいました。そして虚しかった思いは消えました。
 救いの恵みに与った時から5年後に、潔めの恵みに与りました。
 集会に出席して神に近づきたいと願った私の願いは適えられました。救われてから58年以上経ちましたが、その間教会の、出席してよい集会にはほとんど欠かすこと無く出席することが許されてきました。
神が聖書のことばをささやいて語って下さったので、聖書はますます確かな神のことばとなりました。神は私を愛してくださって、これまで人生のきわどいときに幾度もささやいてくださいました。 聖書のみことばをささやいて下さった神は、聖書というもうひとつの神に近づく道を備えて下さいました。救われてからいまにいたるまで、聖書通読表にそって毎日聖書を読み続けています。神が、神に近づきたいと願った私の願いをよしとしてくださったのだと信じています。

(仙台聖泉キリスト教会会員)