同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 聖書信仰-5 —

「けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(テモテⅡ 3:14-17)

  私たちが「すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるため」に、<教え>と<戒め>と<矯正>と<義の訓練>に与りたいと願って論を進めています。
 前回から<教え>を取りあげています。聖書はまず神についてどう教えているのかを考えていますが、知識を頭に詰め込むのではなく、聖書のみことばを種としてこころに蒔いていただくことを願っています。
 前回は、詩篇にあるダビデの詩から、彼の神観をテーマにしました。
 今回は人として地上におられたイエスの神観を示しているみことばを拾いあげてみましょう。それを通してイエスの神観が皆さん自身の神観になることを期待します。

「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイ 5:43-45)
ここでイエスが言われていることの、神は「悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」方です。ということは、よく知られていると思います。しかし、それを理由に、私たちが神を父とする、つまり神の子となる条件がつけられていることに気づかないのではないでしょうか。その条件は、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」です。

  「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」
「神は隠れた所で見ておられる方」とイエスは繰り返し言っています。
ユダの王アサが預言者ハナニから言われたことはこうでした。
「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(歴代誌Ⅱ 16:9)
神は全世界を見渡しておられる方です。けれども一方で、イエスが言われたように、隠れた所におられ、隠れた所で人にお会いになる方です。
イエスが言われているのは、私たちがそこで神にお会いしなさい、ということです。

 「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ 10:28)
「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。」(黙示録 20:11-12)
裁きをされるお方としての神もこころに深くとどまっていなければなりません。

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(マタイ 3:16)
D.L.ムーディーはこう言っています。
・・私自身はかつて、御父より御子の愛が、より重いもののように考えていました。なぜか私は、神は厳格な審判者であって、キリストは神と私との間に立ち、神の怒りを和らげてくださるのだ、という考えを持ってしまっていたのです。けれども、私自身も父親になり、数年間息子が一人だけという時期がありました。その時その息子を見るにつけ、私は御父が御子をいのちを捨てるために与えてくださったことを思い、その思いは宛も、死んでくださった御子よりも御子をお与えになった御父をより愛することへ、私の心を引き付けるかのようでした。
 ああ。御父が御子を、世のためにいのちを捨てる目的で与えてくださったとは。神はどれほど世を愛しておられたのでしょう。
・・・
(「神への道」山田大訳、同労者第11号、2000年8月発行、p.7から抜粋引用 )

 イエスは父なる神について、ほかに多くのことを語っておられます。イエスの神観、それこそが私たちが持っていなければならない聖書信仰の要です。

 イエスの神観が、私たちのこころに深く刻まれますように。