同労者

キリスト教—信徒の志す—

Q&Aルーム

—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-113  —

山本 咲


サムエル記Ⅱ 7章

 神はこの箇所でダビデ王家がなお存続することを示された。私たちは今後の歴史というものからキリストの現れを知っている。しかし、当時これから何があるかということは分かっていなかった。もちろん預言という形で表されていたが、それがどのようなものかは見通すことができなかったのである。しかし、その一方で日常生活は是正された。だからこそそのような環境のなかでどれだけ神の恩寵を見出すことができるかが求められたのである。ここでナタンという預言者が登場する。サウル王は失脚してしまったゆえにサムエルとの関係はそこで終わってしまった。しかし、ナタンはダビデの預言者としてその役目を果たそうとしている。ダビデは彼に対して王でありながら、その権威を尊重し、丁寧な言葉遣いをしてナタンと対峙している姿が見られる。サムエルは時々現れて預言者として働きをするような姿が聖書の中で示されるが、ナタンはそうではなく王家と共に歩み続け、その地位を守り続けた。彼は特にそのような働きに特化していた。聖書には彼がその仕事を確かに果たしていることが要所で書かれている。この箇所においても預言者としてダビデに対峙するナタンの姿が書かれている。ダビデは自分が杉材の家に住み、国が建てられた事実を喜ぶというよりも、そこに神が臨在されることを喜んでいた。だからこそ、神の家を建てようとしたのである。ナタンもダビデの話を聞き、始めはそれを認めた。しかし、その夜ナタンは神から直接的な言葉が語られ、ダビデの神殿建築計画は止められてしまった。ただそれと同時に示されたのは、ダビデ王家がイエス・キリストまで続くものとなり、のちの時代に語り継がれる系図を残すものとなることである。これがナタンを通して語られたのである。なぜ今までのように神はダビデに直接語るのではなく、預言によってこれから起こることを示されたのか。それはこの出来事をダビデに対し、客観的に表したかったのである。そこにダビデの主観が入ることを神が望まれなかった。新約の時代に当たる現代にも神はこの方法を用いられている。神は私たちに客観的に契約を確認し、整えることを求めている。それを重要視していけるかということに気を付けていかなければならないのである。ナタンはダビデにとってそのような役割を与えられた大切な人物であった。だからこそ、ナタンの言葉を聞き、神の御心をその中から探り求めていくことをダビデは怠らなかったのである。それでもダビデが罪を犯すなど、起こってくる問題は確かにあった。しかし、その傍らには神の鞭と杖があり、神を信じ歩もうとするダビデを導き続けたのである。
さて話を神殿建設の方に戻していくが、神はダビデにその仕事を許されなかった。それは次のソロモンの時代に譲られるものとなる。人が思っているほど神の王国は単純なものではなく、簡単に思うようにことを行って、一代で成り立つようなものでもない。神はイエス・キリストの故に罪人である私たちを寛容に扱われ、どのような歩みを今までしていたとしても、悔い改めるならば、贖われ、赦されて神のもとに行くことが認められている。しかし、それはすなわち私たちの信仰が確立されなければ成り立たない。神を敬い、恐れ、その言葉に歩み続けて生きなければならないということである。これは車の両輪のようなもので、偏ってしまえば、前に進むことができず、同じ道をただ堂々巡りするだけのもので終わってしまう。私たちはどのようにして神を敬い、その中に生きて信仰を全うしていくことができるだろうか。私は三代目として、信仰者の尊い継承を受けた。だからこそ、神の前に恐れ畏み、遜りながらどのようにして信仰に歩むべきかを日々考えさせられている。なぜなら救われた私たちが祝福だけを頂いてただ生きているということではいけないからである。私たちは神に対し信仰の姿勢を表していくことが必要である。日常の中で神の言葉を実行し、神だけでなく、人との関係の中でどのようにして神の御心に生きていくか考え、歩むことが必要なのである。実際ダビデは神殿を立てることを許されなかった。しかし、そこに準備し、働き続けることによって、自らの役目を果たしたのである。そしてそれが用いられてソロモンが神殿を建設し、それが成ったことによってまた一つ神の御心が多くの人々の前に表されたのである。私たちも、神からあたえられた召しに応え、なお歩み続けたく願う。


Q:先日の礼拝の中でも「ピリピの教会の人たちが自分を求めて、キリストを求めていない(ピリピ2章21節)」ということがパウロによって語られていると取り上げられましたが、ピリピの教会の信仰の姿をパウロは喜んでいると語られているところもあり、そこにずれがあるのですが、どのように捉えればよいのでしょうか。

A:ピリピの教会は確かにパウロとの関係を持ち続けているゆえに彼の豊かな扱いを受けた教会であり、その中を歩んできた。この手紙はピリピの教会に宛てているが、彼らが全員そのようなものであったことを述べているわけではない。ただ、信仰者の多くはそうであったことを述べることで、彼が悲しんでいる事実を語っているのである。そして、パウロは信仰者としてキリストのことを求めて生きている人物としてテモテとエパフロデトを上げながら、新たな教えとして、自分のことではなく、イエス・キリストを求めるようにと語ったのである。
これが私たちの信仰生活の中において岐路になる。この箇所では自分やほかの誰かではなく、神とキリストを求めてそれに従って歩むということができるか、逆に自分を一番にして、自分の考えのままに生きていないかということを探り続けなければならない。ピリピの教会にはこのためにテモテとエパフロデトがパウロから遣わされた。彼らからその教えを受けること、特にエパフロデトを尊敬し、その信仰に倣うようにとパウロは求めたのである。
これから礼拝でまた語っていく事柄であるが、これはアブラハム、イサク、ヤコブにつながるものである。ヤコブという人物は「自分の意思」「自由意思」にこだわった人物である。それゆえに、その意思がなければ自分の存在価値もなくなってしまうのではないかという思いを抱いていた。だからこそ、神の完全な意思をなかなか受け入れることができなかったのである。しかし、神の思いを自分の思いとしていくという方法で神を受け入れることによって、神の意思の中に自分の意思を確立することができると気が付いたのである。ペヌエルでのキリストとの格闘もそうである。彼はそのような問題を抱えながら、多くのものを捨てきれずに持ち続けていた。しかし、その戦いを通して、彼は打ち砕かれた。そして、自らの持つ多くの意思を貫くことの無意味さに気付き、神の意思と自らの意思を添わせていくことこそに自らの召しと後のイスラエル民族への福音が導かれていると気づかされたのである。 旧約はイスラエルの民であるということで神が贖ってくださっていた。その贖いの信仰はもともとあった。しかし、その中でも失格者となってしまっている事実がその歴史にはある。では救いの達成とは何なのだろうか。それはイエス・キリストの愛と恵みと犠牲と変わらないお扱いの中に自らを生かし続けることである。その所から逃げることなく、また重荷を自分で外してしまわずに苦しい試練の中にあっても自らをそこに置き続けていくことなのである。「イエス・キリストがすべてです」という信仰の中に自分が生きていけるだろうか。またそれに自分が聖霊によって頷いていくことができるか。それがかなわない中であいまいにしていないかなどということを私たちは考え続けていかなければならない。日々をどのようにして生きていくかが大切なのである。
ペテロがイエス・キリストから「あなたは私を愛しますか」と尋ねられる出来事の中で彼は人との比較をしようとしているところが聖書には書かれているが(ヨハネ21章)、それくらい私たちは愛する程度をはかろうとする。しかし、そういうものではない。私たちが夢中になってそれらのことを成していくことが大切なのである。ただ伝道を一生懸命しなさいとか、何かを成せということではなく一生涯を通して、自らを本気になって吟味しつつイエス・キリストを愛するということを示すことが求められているのである。
貴方も信仰者として生きている中でそのようなことを知っているだろう。だからこそ、それをどう実行していくかが重要なのである。
私はある姉妹に「子どもを母性でなく信仰と福音で育てなさい」と語った。母性の性は性分の性と同じである。性分とはイエス・キリストのことを考えているのではなく、結局自己満足で、自分の意思ですべてが終わる。ヤコブが抱えていたのもこの性分という問題である。また引き続き、この性分という問題も礼拝で語っていきたい。


Q:先日の青年会で「その人にしかわからない神の導きが与えられることがある」と語られましたがどのようにそれを捉え、応えていけばよいのでしょうか。

A:若いうちから自分にだけ神からの導きが与えられていると考えない方がいい。まずは自分の周りにいる家族や導き手から示されるところに忠実であり真実に真心をもって生きることが大切である。テモテがパウロと働きを共にするようになったころとピリピの教会が建てられたのはほぼ同じくらいで、パウロがピリピの教会に手紙を送ったのは10年たった時であった。つまりテモテもその年月をパウロと共に生きた。それによって彼は自らの賜物と示された道を知ったのである。テモテはパウロと働きを共にする中で、パウロより先に目的地に遣わされたり、逆に残されてあとから合流したりということを繰り返し行った。だからこそテモテはパウロが働きやすいように、その言葉が人々に届きやすくかつ残るようにすることが自分に導かれた神の働きであると見出したのである。
結婚して家庭を持つと、貴方の奥さんは貴方に家族が進むべき道を尋ねてくる。貴方は家庭の方針の最終決定者になる。それは自分で決められる一方で責任も背負うことになる。だからこそ、今はまず、周りの人に従いつつ、自分が責任を担ったときに導きを見出せるように訓練を積んでいくことが必要である。
ある兄弟の話だが、ある日、彼に会社で社員が効率よく作業ができるように、必要な機器を上司に申請する仕事が任せられた。申請のためにはその必要性を事細かにまとめた書類を提出しなければならなかったため、書類作成には多くの時間を費やす必要があった。にもかかわらず、その仕事が増えたからといってほかの仕事が減るわけではなかった。しかし、彼はその仕事を蔑ろにするのではなく、共に働く仲間たちが少しでも安全かつ効率的に働きができるようにと一生懸命そのことに当たっていた。それは彼が自分に与えられたものとして真実にその仕事をしようと自分を投じていったからである。その結果彼には祝福が与えられた。彼がその仕事に時間をかけていて、ほかの仕事が溜まってくると、仲間が一度自分たちの仕事の手を止めて、その兄弟のたまってしまった仕事をしてくれるようになったのだというのだ。彼の真実な働きの前に、ほかの人が自分を彼のために投じていくことを選ぶようになったのである。
彼がそのようにできたのは、それまでに多くの経験をしてきたからである。福音が彼にそのような要素をもたらし、聖言や説教、私との関わりの中で変わってきたものなのである。
他にも仕事をしつつ、家庭を守るために身を投じている兄弟たちが多くいる。ある人は朝6時から働くようになり、代わりに今までなら残業していた時間を早く仕事に行くことで時間通りに帰宅し家族とともにその時間をとれるようにしたのである。家庭の宗教性を重要視し、夕食や子どもたちと過ごす時間の中でそれを意識する機会を十分に持てるようにしたのである。これは意志して変えなければならない。夕食の時間を共にするためにと考えて対策を立てた。理由をつけてないがしろにすることも簡単にできる。しかし、そうではなくその時間を大切に家庭で確実に持てるようにしたのである。それは多くの人に変化を与えた。彼は家庭の福音のために自分の生活を変えたが、その影響力は共に働くものにまで及ぶものになり、同じように朝早く仕事に出て、早く家に帰り、家族を大切にする人が同僚から出てくるようになったのである。
またある兄弟は同じように朝から働くことで帰れるようにと働き方を変えたが、その分の給料が出ないという結果になってしまったことがあった。しかし、その中でも家庭を顧みて彼は働き続けた。その結果、彼のその合理的な働きに会社が理解を持ち、給料を出すと言い出したのである。それぞれがやるべきこと、やらなければならないことを考え、志していったからこそ、一つ一つ結果が与えられた。信じてそのように生きていると神が何らかの形で祝福してくださるのである。まず、あなたは今置かれている場所でやるべきことを、信じてなお頑張ってほしい。


Q:福音的という言葉が先ほどの話にもありましたが、そのニュアンスを捉えられずにいます。福音的とはどのようなものですか。

A:福音的という言葉は様々なものを網羅するような言葉である。私たちがイエス・キリストを信じてことを行うことで周りに感化を与えることを福音と言うし、色々なものに使われる。話は少しそれるが、このような行動をこれ見よがしにやる人もいる。注目を受けたくて、いかにも自分がそのようにしていることを表すためにするなど動機が不純な人もいる。しかしそのような人は長く続かない。先ほどまでに上げた兄弟たちが行った多くのことも人によっては賞賛するのではなく、バッシングする人もいる。これ見よがしにやる人はそのバッシングですぐ落ち込んでしまう。そして、それが実績としてならない。文句を言う人がいても、その中でやり続けて実績を残していくからこそ、福音となるのである。できない理由を並べて、きっと神から許されていないのだと言ってしまう人もいるが、それでは神の前に豊かな福音の実を残していくことができない。神から与えられた豊かな愛に私たちが応えていくことがこれらの行動として表れるのである。先ほど語った帰宅時間を早めた兄弟は自分の子どもに信仰を持ってほしいから、家庭を大切に、子どもたちと深くかかわるようにしているのである。子どもに信仰を受け継がせたいと口だけで言っているばかりで何もしなくても継承されるほどこの信仰の道は簡単で単純なものではない。むしろそうしていても救われずに去ってしまう霊もいる。だからこそ、私たちは信仰によってこれらのことに自分の命を懸けて行っていかなければならない。
私たちの教会は祈祷会を会堂ですることができるほど礼拝と変わらない人数が集まる。しかしこれはそう簡単なことではない。老牧師が始めた時、祈祷会は別室で数人しか集まらなかった。しかし、それではいけないと会堂で行うことにして、祈祷会も守ることの大切さを語り続けたことでそのように徹底されていったのである。私がある教会で御用をした際、その教会の牧師先生は私たちの教会を「礼拝と祈祷会で集まる方の数がほぼ同じという教会です」と紹介してくださった。それがいかに難しいかを知っているからこそ、そのように紹介してくださいました。「成せば成る 成さねばならぬ なにごとも 成らぬは人の 成さぬなりけり」という言葉があるが、仕事や生活の中で簡単には選び取れないことも多くある。しかし、理由をつけてしまうのではなく、いかにしてその時を勝ち取っていくかということが重要なのである。成せば成るのだ。週の半ばでもう一度神の前に集まることが重要であることを心に留め、いまも多くの兄弟姉妹が取り組み続けているのである。それが福音ということなのである。
また私たちの教会には教会学校成人科というクラスがある。これは決して軽く扱っていいものではない。礼拝前に9時から集まってこの時間を過ごして心を整えることがどれだけ恵みにつながっているだろうか。これも私たちが生活の中で徹底できるかどうかなのである。
貴方の旦那さんが自宅の場所を決めるときに最低限交通費の出るくらいの距離にしようとはじめ考えていたのに、最終的にはその交通費を無視して、会社の近くに自宅を決めた。それが彼に与えられた変革であった。決してそう安い金額ではないのは事実である。それがあればと願う気持ちもわからなくはない。しかし、その交通費の逆側の天秤に載っているのは何か。家族である。ただそれに気が付かない人が多い。そして結局少ない金額で大切なものを売り渡してしまっている。彼は交通費よりもお昼に自宅に帰って8か月の息子を抱くほうがいいと考えることができた。福音が与える大きなものである。


Q:性分という言葉が心に残って、性分がいい意味で働くときもあると思うのですが、信仰的に行うことと、性分で行うことと、どのように考えていけばいいでしょうか。

A:そんなにはっきりと明確に分けられるものではない。性分ということは今語り始めたばかりで、その言葉の認識が教会で統一されていないため難しいところがあるが、私が語っているのはどちらかというとネガティブなイメージのことである。どうしてもいつも出てきてしまう問題や、いつも選んでしまいがちなこと。変えられない問題、越えられない壁などを意味して語っている。特に今年語っている変革を妨げるものを総称してそのように述べている部分もある。明確に分けることは難しいが、とにかく、自分の行動の妨げになるような、どうしようもなくいつもぶつかるもの、それが福音に結び付いていないもの、時にいい結果をもたらすだけに終わらないものなどがそれである。
信仰で行うことについても同時に考えていきたい。私たちはよく物事を「信仰で」と言いやすい。しかし、それを突き詰めてなぜそのように行うのか、論理的に神がどのようなものを求めておられるのかと深く考えていかなければならない。あなた自身がどのようなものを最終的に目指しているか。そこに本当に向かっていけるのか、勝ち取っていけるのかとまず考えながら、歩んでいくことが信仰によってことを行うことなのである。願っていれば叶うではなく、その目標を達成するための行動を選び取っていかなければならないのである。またそう歩んでみると自分たちを妨げてしまっているものに出くわす時がある。それが何かを突き詰めていくと、性分の可能性があるということを今は語っているのである。そのようにもう一度考えて、この話を捉えていただきたい。神の導きは最初なぜこんなことをしなければならないのかと思うことが多い。しかし、それを信じ超えて初めて神からの祝福が与えられる。そして、それを過ぎると神の祝福を数えることができ、証できるようになる。神がどのように導いておられるかわからないときは確かにつらい。どうなるのかと不安にも思うだろう。しかし、神はそのままにはしておられない。必ず、私たちがそれを捉えられるように見える形で表してくださる方である。そしてその経験をするからこそ、神の導きの中に更に自分を投じていくことができるのである。性分は良いものも確かにある。しかし逆に性分は失敗すると悪循環にはまって低迷してしまう原因になる。その人にとって性分は精査されずに営みになるものが多い。だからこそ、それが立ち行かなくなると、それ以上進めなくなる。しかし、信仰は一見失敗や結果が悪く見えるようなことでも、その先に神がなさること、導きを見ようと歩みが遅くなろうとも止まることはない。神が私たちの信仰に応えて、祝福を何らかの形で与えようとされるからである。

(仙台聖泉キリスト教会会員)