同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— 漸進的聖化 —


  きよめ派の人々で、漸進的聖化をうたう人々がいるようなので、文献を覗いてみた。
 まず「漸進(ぜんしん)」ということばであるが、辞書を見ると、それは「順を追ってだんだん進むこと」「少しずつ進歩すること」などと説明されている。聖化にあてはめて使うと、「だんだん聖くなること」「聖さのレベルが少しずつ上がってくること」ということになる。

 ウェスレーの「キリスト者の完全」をはじめ、トマス・クックの「新約の聖潔」、J.A.ウッドの「全き愛」、A.M.ヒルスの「聖潔と力」、S.A.キーンの「信仰の盈満」、C.W.ルスの「第二の転機」、ハリソン・デービスの「聖化論」、ロイ.S.ニコルソンの「聖化論」、H.E.ジェソップの「聖化論」、サムエル.ブレングルの「聖潔の栞」、ワインクープの「ウェスレアン、アルミニアン神学の基礎」などには「漸進的聖化」、「漸進的聖潔」とか、「漸進的キリスト者の完全」とかいうことばや発想は現れない。ただしこの問題に言及していないだけで、どのように信じていたか分からない人もいる。

ジョン.ウェスレーはキリスト者の完全の中で「神の恵みには、継続的な働きと瞬間的な働きがある」こと、キリスト者は成長するものであるが、キリスト者の完全の恵に与る前の成長はのろく、与った後は遙に速く成長すると主張している。

パーカイザーは「キリスト教信仰の探求」に成長は分量の増加であって質は変化しないと述べている。
ハリソン.デービスも成長は質の変化では無く量の変化であるとしている。

 ワイレーとカルバートソンの「キリスト教神学概論」に「漸進的聖化」が掲げられているが、その内容は、転機的聖化の恵みに与った後「聖潔の状態に保たれること」を漸進的聖化といっている。聖化の状態に保たれることが、「日々聖化の経験」という感じで、すこし緊張を強調しすぎの感じがする。ひとたび「聖化、きよめ」の恵に与ったならば、「聖潔の状態」に何の緊張もなく生きることができる。「救い」「新生」の恵みに与ったあと、日々悔い改めの緊張に生きてはいない。救われた状態に生きていることが当たり前になる。聖潔に生きることもそれと全く同じである。

 ホリス.F.アボットは著書「聖化」のなかで「漸進的聖化」について述べているが、彼が漸進的聖化と呼んでいるものはウェスレーが成長といったものと同じである。アボットはいう。転機的聖化の恵みに与ったあと、「円熟」にむけて成長するのである。その内容は、
1)神を知る知識における成長。
2)愛における成長。
3)恵みにおける成長。
であるとしている。
 ウェスレーの述べていることを展開しているようなもので、「成長」というべきであって、「漸進的聖化」と言わない方がよさそうである。

 1976年に日本ウェスレー出版協会から刊行された「メソジスト聖化論(Ⅰ)」に「漸進的聖化と全き聖化」が取り上げられている。詳細に紹介することはできないが、その概要は、私が「聖化」と呼んでいるものが「全き聖化」に相当しており、人が救われるとき「悔い改めて」信じるという人がなす過程があるのと同様に、聖化の経験においても「悔い改め(罪を離れること、罪の体を脱ぐなど種々の表現があるが」かつ「献身して」信じる過程がある。その過程を漸進的聖化と呼んでいる。

 これも先に掲げたものであるが、ロイ.S.ニコルソンは、聖化に与った後の成長について、「恩寵」は神によるものであり、「成長」はひとによるのである、としていて大変興味深い。

 ここからは私自身の見解であるが、はじめに立ち返って、聖化の恵みによって私たちに与えられる「聖性」はどこからくるのかを考えるとよい。
知識とか愛の品性とかならば、だんだん増えることもあるであろう。
しかし聖化すなわち私たちに聖性が与えられるということは、聖霊が私たちの内に内住され、聖霊と私たちが一体となることにある。何かの品性の一つが私たちに与えられるようなものではない。聖化とは聖霊のバプテスマそのものである。そして聖霊と一体になって生きることが「聖潔」である。
 昔から言われているとおり、イスラエルの出エジプトからカナンの地に至るできごとは、キリスト者生涯の縮図に非常によくあてはまる。

エジプトはこの世である。そこでサタンの奴隷として生きている。イスラエル人は、モーセに率いられ神の奇跡によって海を渡り、出エジプトしてシナイの荒野に入った。出エジプトは救われることになぞらえられる。私たちが救いに与ったのは奇跡である。
 荒野をぐるぐる回って40年後、ヨシュアに率いられ、神の奇跡によってヨルダン川を渡り、カナンの地に入った。ヨルダンを渡ることは聖化になぞらえられる。聖化の恵みは神の奇跡の業である。

 どこの地にいるかが恵みの質を表している。エジプトでは、サタンの支配下にいる。
シナイの荒野では律法が与えられ、神の幕屋があった。そこに神の聖性が置かれ、救われた人は「聖徒」なのである。しかし、そこには獲得する領土はなく、ただ旅を続けるだけである。この段階では成長が鈍いとウェスレーは言ったが、全く成長しないという方が当たっている。ステパノに「イスラエルの家よ。あなたがたは荒野にいた四十年の間・・・モロクの幕屋とロンパの神の星をかついでいた。それらは、あなたがたが拝むために作った偶像ではないか。」と言われたように、自我という偶像と共存するのである。

 カナンの地は聖潔の領土である。聖化の恵みに与ると、カナンの全地を領有するために戦うのである。どれだけ占領できたかが、成長の程度を示している。 成長は「戦争によって」勝ち取るものすなわち「人による」ものであって、ニコルソンの見解があてはまる。しかし、どこまでも「カナンの地」で、聖さの質は変わらないのである。

これまで述べてきた内容ではことばが適切であるかどうかくらいの問題でしかないが、奇跡によらず漸進的にカナンに入ると主張するならば、それは聖書的聖化ではない。