同労者

キリスト教—信徒の志す—

寄稿

講解説教要旨:ヨハネ福音書4章

鎌田 新


「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。(ヨハネ 4:13-14)

 本日の箇所は、個人的にとても好きな箇所なのですが、このシーンを思い描くと、なんとも美しい情景が浮かんで来ます。砂漠、井戸、そこに佇む主イエス、そして水を汲みに来た一人の女性、、、そして、それは必然的な遭遇であったという不思議(4節)。

なぜならキリストは、この特定の女性に"いのちの言葉"を伝えるためだけに、ガリラヤへの途上、わざわざ遠回りをして、このスカルという町を訪れたからです。
ここで3つの視点からこの出来事について考察してみたいと思います。

先ず一つ目は、この当時、主イエスのようなユダヤ人は、決してサマリア人と付き合う事をしなかったという社会状況です。

それは歴史的にイスラエルという国が北と南の2つに分裂した事に遡ります。(B.C.920年頃)。
その後、アッシリア帝国により北のイスラエル王国が滅ばされますが(B.C.722)、この時に捕虜とならずに首都サマリアに残された人々が、やがてそこに移住して来た異民族と混血したために、正統なユダヤ人たちから見ると、サマリア人というのは、神との契約と律法に基づく"選民"としてのアイデンティティを喪失した人々と見做されていたためです。

また、サマリア人が、ゲリジム山をその礼拝場所としていた事は、唯一無二の礼拝場所はエルサレム神殿であると考えるユダヤ人たちから異端視されていました。
このように、ユダヤ人の目には、サマリア人は宗教的また文化的にその純潔性を失い、堕落した人々と映り、毛嫌いしていたのです。

2つ目は、当時は男性が道端で女性に声をかけるという事はあり得ない行為でした。
現代人には然程の違和感はないかもしれませんが、当時の社会ではタブーであったのです。

3つ目は、彼女には過去に5人の夫がいて、今のパートナーは夫ではないという事実は、倫理的に罪深い女性として社会的に排斥された存在であったということです。主イエスは彼女の隠された過去も現在をも言い当てた上で、彼女に「メシア(救い主)は、あなたの目の前にいる私である」と告げます。

このように、主イエスは当時の社会的、宗教的、文化的、倫理的タブーであった事をことごとく破り、この女性の人生を根底からくつがえす、「生ける命の水」について語られたのです。

彼女には神の憐れみを受ける理由がありました。
それは社会の状況が、女性としての立場が、彼女の人生を翻弄して来たからです。
戦後日本の占領期の夜の女の心情を歌った「星の流れに」という曲があります。そのサビの部分で「こんな女に誰がした?」という、自分の身の上を嘆くフレーズがありますが、このサマリアの女もそんな絶望的な心境で生きていたのではないでしょうか。

主イエスが最初にご自分がメシア(救い主)である事を明かされたのは、この社会的に蔑まれ、霊的に渇いていた女性だったのは驚きです。
そして主イエスの言動は、人間がこしらえた古い秩序、形式的宗教の欺瞞や性差別、人種的差別の愚かさをことごとく打ち壊し、霊的な真実と神の恵みによる本当の信仰と希望、すなわちそこには全く新しい神と人との関係の到来が宣言されているのです。

どこで礼拝するかではない、人は霊とまことによって神を礼拝しなくてはならない。
性別、人種や肌の色などは関係ない、ユダヤ人であれ、日本人であれ、国籍や経済的状況も関係ない。

社会的に今あなたが、どんな環境で、どんな生活をしていようと関係ない、罪の中にもがいていようと、絶望していようと関係ない、必要なのはいのちの水をキリストから受けとる事であると。

よく勘違いしている真面目?な人がいる。私は罪深く、とてもふさわしい者ではない、もう少しまともになってから、神を受け入れよう。そう考えている方は、よく今回の箇所を読んだほうが良いでしょう。順番が逆だからです。先ず、命の水をキリストから受けること無しに、私たちの人生は変わらないのです。

この普遍の神の福音(良き知らせ/良き訪れ)は、今日もあなたにこう語ります「あなたと話しているこのわたしが、それ(メシア)である」(26節)と。

(夜越山祈りの家キリスト教会 牧師)