ショートコラムねだ
— 完全について考察する —
「ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。」(マタイ 5:48)
「これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人(完全な人)であった。ノアは神とともに歩んだ。」(創世記 6:9)
「アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現れ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者(完全な人)であれ。」(創世記 17:1)
ジョン・ウェスレイがまだ救いの経験もしていなかった時に、聖書の中に「完全でありなさい」というイエスの教えがあることを見いだし、それがどういうものかを知ろうとしてひたすら聖書を研究した事はよく知られています。そして彼はそれが聖書の中に書かれていると確信しました。しかし彼がそれを自分で経験したのはずっと後のことです。モラビア派の人々との交流から、救いの経験に至りました。弟のチャールズ・ウェスレイが先に「完全」を経験し、兄ジョンに「あなたのペンテコステはまだ来ていません。」と手紙に書いた事が知られています。ウェスレイ自身がいつそれを経験したのか、日記などから研究されていますが決定的な時はいつだったか、私にはよくわかっていません。やがてそれを経験したことは明らかです。ウェスレイは、聖書を真理の標準として重視しましたが、経験する事に重点をおき、これだけ多くの説教が「キリスト者の完全」について説かれているのに、経験する人が誰もいないのならその教理は捨てられなければならないとしました。また教理の万般にわたって「経験」を重視するようになりました。彼が「キリスト者の完全」を説いたときから長く・・それは彼が死んだ後まで続きましたが・・・猛烈な反対に遭遇しました。それで、自分が説いているものは「どういう点で完全であるのか」「どういう点では不完全であるのか」整理して述べています。
完全の中心は、神と人への「動機の愛」にあります。常に愛を動機として行動することです。また「キリストとともに世に対して死ぬことです。」世のものはもう自分の「宝」にはなりません。キリストと共に死ぬのは「我自身(古い人の自我)、罪の根、原罪、などと呼ばれているもの」がそれです。根絶されるという表現もされました。マタイ15:13のイエスのことばに由来します。また神の像(かたち)の回復、聖霊の満たし、などが含まれます。最も大切なことは、「完全」は救われたときの「新生」と同様<神の業>によるもので、神に従う意志は必要ですが<人間の努力では達成できない>ものだということです。
時が経過し、メソジストが増えた後、キリスト者の完全の恵みに与りましたと証言する人々が増えたので、それを丁寧に調べた結果、転機の経験がない人は一人もいなかったと報告しています。
不完全の中心は、「無知」、「過失」、などから行為を誤ることは避けられないということです。
反対する人々は「過失も贖いを必要とする。贖いが必要なものは罪である。だから完全はありえない。」とします。
ウェスレイの主張は、すべてのものが贖いを要するが、神は「故意の罪」と「過失の罪」を区別される、ということです。
もし罪の根が根絶されたのならどうして再び罪を犯すという現実があるのか?と議論され、ウェスレイはこう回答しています。「完全なひとであったアダムさえ罪を犯したのであるから、かつて罪に生きた私たちが罪に陥りやすいことは当然」である、と。その場合でも、直ちに悔い改めて神に立ち返るなら恵みは失われないと彼は主張しています。しかし「定常的に同じ罪を犯す」ことは決してないとします。その状態は完全の恵みに与っていないことを意味します。
今では潔め派の人々も「完全」の恵みに与りましたとは言いません。「きよめ」ということばを使うことが多いと思います。しかし、イエスご自身が「完全でありなさい」と命じておられるのです。
冒頭に掲げた人物、ノア、は完全な人であったと神に認められています。洪水のあと、ぶどう酒によって醜態をさらした記事がでてきます。それでノアの「完全」を色あせたものとて見るひとも多いことでしょう。けれども神が「おまえはもう完全でなくなった」と判断された記事はありません。神のノアへの祝福は永遠に続きます。
アブラハムについては、「完全でありなさい」と命令されるところからはじまります。彼の神に従う姿勢は素晴らしく真に完全な人でありましたが、エジプトでパロを恐れ自分の妻サラを妹だといったこと、ゲラルでまた同じようにサラを妹だといったことなどの人生の傷を残しました。しかし、神は彼を預言者だと仰り、常に彼の味方となられました。ノアとアブラハムの例は、ウェスレイの主張に当てはまるように感じます。 旧約の人々は、新約の時代に生きている私たちを教える題材ですが、私たちが頂く事ができるものは、旧約の時代よりも遙にまさるものです。
十字架の贖いは完成し、聖霊が私たちひとりひとりに宿って下さり、私たちは「神の宮」となりました。聖霊の満たしは、救われたときに遙に勝る恵みです。私たちは「神の宮」であるとともに「神の宮に仕える祭司」です。
ペンテコステの前には「イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。
イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。」(ヨハネ7:39)と書かれていて、イエスが十字架の贖いを完成され、天に帰られて栄光をお受けになった後の時代は、その前の時代より遙に勝る姿となった「救い」すなわち「きよめ」(「聖潔」「完全」)が与えられる時代が来ることが示されていました。ペンテコステでそれが実現しました。
「きよめ」には入り口があります。そこを通過した後に「きよめ」に生きて、それがどのようなものか「神の恵みを味わう」事が許される信仰生活が備えられています。ウェスレイの報告がそれ裏付けていると思います。