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キリスト教—信徒の志す—

― Q&Aルーム ―

—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」-報告-176 —
   -- 2026年1月 開催 --

山本 咲


列王記Ⅱ 24章

  ヨシヤという王が改革を行った。主の宮から律法の書が見つかり、自分たちが求められている姿からかけ離れていたことを受け、彼は大きな衝撃を受けた。だからこそ、その事実を真摯に受け止め、改革を行ったのだ。しかし、その先の歴史を見ていくと、彼はパロ・ネコの前に敗戦を迎える。そしてヨシヤから王が変わり、新たな時代が来ると彼らは主の目の前に悪を行った。ヨシヤである程度の回復が与えられた。しかし、それだからと言って彼らが滅びから逃れるということではなかった。ヨシヤは主を畏れ、心から悔い改めたが、民は形だけの悔い改めで終わり、王が入れ替わればその姿も変わってしまったのである。現代の私たちは個人として宗教を行っているが、預言者は当時、集いの単位で宗教がどの様に行われていたかを表している。彼らにとっての恐ろしさは神の憐れみがその記憶から絶たれてしまうことである。ではヨシヤの改革は無駄だったのかというとそうではない。彼らが最終的に捕囚を経てもう一度この地に戻ってくることができたのは、この改革で少なからず、信仰を育まれ守られた者たちがいたからであると考えられる。私たちがこの聖書を学ぶ会でとらえなければならないことは、神が裁きを決めておられる中でどのように事が進んでいくのかということである。神ご自身がその裁きという決定を覆さないという事実もまた真理としてある。ただ、そこにも一面の神の憐れみが現れてくるのである。
ヨシヤという王を取り上げたが、彼は悔い改めを行った。彼には悔い改めるべき何かがあったのだ。そのような自分が存在するということ、悪い自分がいるということを彼は認識していた。しかし、多くの人々がその時代その事実に気づくことができなかった。気が付かなければ見逃されるかというとそうではない。逆に気が付かないからこそ、彼らは悪を行い、その悪が裁きを招いたのである。そこから3か月で彼らは滅びへと進んでいく。その3か月は本来ならば聖言を受け止め、民にそのことを悟らせ、民全体が悔い改めとともに神に近づかせていただくことで、救いへと至ることが求められていた。しかし、彼らはそれができなかった。彼らにとってそれは優先順位が低く、必要のない事柄だった。ヨシヤは何よりもまず神を第一としたが、時代が変わるとそうではなくなってしまったのだ。「この厳しい状況でそれが何になるのだ」と民は神をないがしろにしたのである。それゆえ3か月を迎えたところで彼らは滅びに至る。彼らが滅びに至ったことで、その時代の王は3か月でその治世を終えた。その長さでは何もできないとも考えられる。しかし、本来は先ほど語ったように聖言を通して自らを見つめなおし、悔い改めに至る必要があった。だからこそ、3か月という治世の短さの中にも彼らが行ったのは悪であったという事実が語られているのである。そのような時に私たちはどのようにしていくべきだろうか。大切なことは自分を吟味するということである。聖言に照らし合わせ、何が罪であり、悪しきであり、何が正しいのかということだ。ただ、その字ずらをおっているとどうしてもその基準に自分をあてはめたり、相手をあてはめたりして、何がいいの、悪いのということになりやすい。そうではなく、まずその根本に神がその行為をどう思われるかと考えていくことである。それを喜ばれるのか、悲しまれるのか、私たち本意の考え方ではなく、神の視点で考えていくことが大切である。そのようにすることで律法的な解釈にならず、自らを吟味していくことができるのだ。私たちはイエス・キリストの贖いを受けてその中で生きている者として自らがふさわしいのかと考えていくことも必要である。それによって私たちは悔い改めに至れるのである。それが私たちの心の目による霊的価値観が養われ、気が付かずに自らの思いや、世の価値観にとらわれてしまうということから守られるのである。また同時にこの時代は裁きの時であり、懲らしめの時である。私が何をしたのか、愛する者がなぜ悪いのか、なぜ過去の歴史のゆえに裁きを受けなければならないのかという思いが起こる。その心には遜り、神の憐れみを信じる意志はなくなってしまう。だからこそへブル人への手紙12章5-7節にも「我が子よ主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛するものを懲らしめ、受け入れるすべての子に鞭を加えられるからである。訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなた方を子として扱っておられるのです」、とあり、また11,12節には「すべての懲らしめはその時には喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、のちになるとそれによって訓練された人々に平安が義の実を結ばせます。ですから弱った手と衰えた膝とをまっすぐにしなさい」とある。どこまで行っても私たちは神の恵みと真実があり、憐れみによって生かされていることに目を留め、その中を歩むということが主の義であるということを大切にしていきたい。義を行っているのだから評価されるべきだ、報われるべきだ、ではなく一方的な憐れみを受けて救いに至ったからこそ正しいものへと変えられたのだという前提を忘れずにいたい。今年も一年間様々なところを通り、時には人の評判ということを聞くかもしれない。また、何が良くて何が悪いのかということが私たちの思考から離れなくなってしまい、いつの間にか正しさを求めているように見せながら、自分を義にして肯定してしまうということを畏れていかなければならない。また反対に、いつの間にかどうしようもない自分に打ちひしがれて、どうせ私にはこのぐらいのものとしてしか神の恵みは届かないのだと恵みを自分の物差しで測り、決めつけて、その信仰と神の御業を小さく見積ってしまう、避けてしまうということにならないようにも注意を払っていきたい。豊かに信仰生活を歩ませていただき、共に生きる者たちに神の恵みがあらわされ、信仰が導かれていくことを願う。そのために、なお自らの信仰の実践として何をするのか、逆に何をあえてしないのかということを考えていきたく願う。

Q:4節のところにマナセが流した罪を犯していない者の血について出てくるのですが、列王記前半はヤロブアムの罪と語られ、後半はマナセの罪と語られています。この二人の罪が神の目の前に特別に大きかったと言えるのでしょうか。それとも、後の世代に残るような罪を犯したからでしょうか。

A:罪そのものはその人のものである。それはそこに裁きが起こってくるという問題を含めて、考えることだ。ただ、私たちはそのような問題がでてくると「あの人の悪さに比べれば、私はまだいいでしょ」というような思いが起こってくることがある。それは誤りである。私たちはどこまでも罪の贖いということを自らのものとしない限り、神に喜ばれるもの、罪が贖われたものとはならない。ならばなぜ、彼らの罪がこのように繰り返して登場するのかというと、ある意味において共通する印象を与える出来事だったからである。そういう意味においては代名詞のような役割を持っていたと言えるだろう。では前半に語ったことと後半に語ったことは全く関係ないのかというとそうではない。実際にはその根源に神を無視する、なき者にする、神の前にへりくだらなかった、神を認めなかったということがあるのだ。だからこそ個人がその問題をどう取り扱ったかということが重要なのである。「あの人より私はまだまし」ではなくして、当然自らの問題は何かということを追求し、処理していかなければならなかった。それによって神を信じ、神を認めるということに至り、神に赦しを請い願うのである。それはあの人より悪くないから大丈夫というものではなく、実際に神の恵みが私たちを罪から救い出し、それによって神の民と呼ばれるに至るという根本的なものである。ただこれは一面知識的な考え方である。だからこそ、それをどのように実践と結び付けていくかが重要なのだ。加えて、そのような意味合いを正しくとらえることとして聖書が身近にあり、私たちが好きに神を描いて救いに至るというものではないようになっているのだ。そこには正しく秩序が存在する。なんでもありの世界ではないのである。ただ同時に知識的なものを理解したからといってすべて問題なしというものではない。それを理解することを通して生きることにも反映させ、車の両輪のようにバランスよく回転するからこそ、前に進むことができるのである。当たり前のようなことだが、神の恵みと真実ということがある。真ということと恵みということはあいまいになりやすい。真とはガソリンスタンドでお金払って30ℓ入れてくださいとお願いして、30ℓ入れてもらうことである。では恵みとは何か。その時に今日はいいことがあったから30ℓに10ℓプラスして40ℓ入れてあげるよということなのだ。それに対して「そうね10ℓくらいおまけしても当たり前よね」というものではない。そのような考えでいくならば神の恵みを当たり前のように受けてしまったり、逆にそれが少ないとか文句を言ったりするのはおかしい話だ。わたしたちは恵みによって救われており。恵みが私たちを活かし続けている。にもかかわらず私たちはそのようなものをいかにないがしろにしているか、其れがないと生きられないのに、世の勢いや世の情報に踊らされ、本来必要なものを見失い優先順位を変えてしまうのだ。なお恐れて歩むことを考えつつ、恵みに感謝をもっていきたく願う。

Q:心の目、霊的価値観を養うと語られていましたがどのようなことをすればよいのでしょうか。

A:先日部屋の整理をしていたら聖泉誌の合本の4号が見つかった。それをちょっと眺めていたのだが、そこに、連合のある先生の文章で若い兄弟と聖会に行った話が載っていた。その先生と兄弟は朝5時ごろに起きて、北海道の極寒の中、祈り会をしたそうだ。それで寒くなったから先生はその後、温泉に入ろうとした。しかし、兄弟は「私は毎朝聖書を読むんです」と言って温泉の前に聖書を読むことになった。それは親から毎朝一章読むようにといわれ、幼いころから訓練を受けていたからこそ、身に付いたとのことだった。そのように積み重ねが私たちの信仰生活を形作っているのだと気付いたと語られていた。だからこそ相手にただやりなさいということだけでなく、内容や、やり方をどのようにしていくかを精査していくことが必要だ。「私の生活には悔い改めなんて」という生活をしている人たちもいただろう。しかし、そこからイエス・キリストと出会い、自分たちの生活が一変した人たちもいるだろう。聖言を通してどう吟味されるかが重要なのだ。そしてその先で良いものを選び取ったという経験を活かし、愛する子どもにどのように残していくかが重要だと感じる。
私たちの社会でどれだけ信仰者としての在り方を精査していくことができるかが大切である。そのために常に神の声を聞こうとし続けることが重要なのだ。子どもが幼いうちというのは目をかけ続けているものである。しかしそこから年齢が上がるとだんだんと手を離れていくようになる。だからこそ、その年齢が上がり、手が離れてしまう前に、日々かかわりの中で教えていくことが必要なのである。そうでなければ、あっという間に手をはなれ、そのまま神からも離れてしまうようになる可能性があるのだ。だからこそ、私たちがその霊を惜しみ、嘆くイエス・キリストの叫びとしての印象をどれほど意識できるかが重要である。
年を取ると忘れてしまうということが起こる。記憶だけでなく、意志するということを続けていくことが難しくなる。だからこそどうやってその心を持ち続けていけるかが重要になる。そのためにも霊的なことに日々アンテナを広げ、聞き続け、必要ならその疑問を追求していくことが必要なのだと感じる。
好きな方向に自分の考えを進めていくのではなく、必要な方向にもっていくのである。それは私たちの全人生を形作っていくことに重要な生き方になる。だからこそ日々の営みが忙しすぎたり、それによって夢中になりすぎたりしないことが重要であると感じる。世の営み、金銭や社会生活での成功の中で生きながらも、信仰を結び付けて考えていくことが重要となる。そうでないとただただ時間が過ぎる中を漠然と生きているだけになってしまったり、いつも同じ慌ただしさの中でいつの間にか通り過ぎてしまったとなってしまうのである。

Q:マタイの福音書の10章の一部を取り上げたメッセージがデボーションで本を通して語られたのですが、イスラエルの滅びた人たちのところに行きなさいと語られていました。本文ではあなたたちはただで助けられたのだから、ただで働きに行きなさいと語られていました。イスラエルの滅びた人たちとはいったい誰でしょうか。

A:究極、神は人を罪に定めようとしているわけではないという大前提がある。私たちはどうしても主観で「あの人は救われるわけない」ということを思ってしまいやすい。しかし、実際は、すべての人が救われるようにと願っているのである。この書の中ではイスラエルと限定されたが、その先でイエス・キリストによる新約の贖いは完成し福音を述べ伝える対象は全世界、すべての人たちになった。だからこそ、あなたにとっては周りにいるすべての人に対して行うべきであるということが語られているのである。ただ、大切なのは私たちの中だけで完結するとは限らないということである。一人でかかわって救われればもちろんいいが、それだけではなく何人かのかかわりを通して最終的に芽が出るということにつながるのである。今は「あなたの周りにいる滅びた人たちのところにいきなさい」と語られているのだ。だからと言って、トラクトを持ち歩いてすれ違う人たちすべてに配れという意味ではない。あなたの周りで導かれている人、関わる人の中であなたが許される範囲で必要ならやってみたらいい。ただそれもその時にはただ否定されて終わるかもしれない。それであなたがああもう無理だなと思ったら潔く手を引いてあとは主にお任せしようとしてもいい。すると意外と何年後かに「あの時にあの人に言われたな」ってその人が思い出すこともあるかもしれないし、そこから導かれることもある。あなたが無理をしてまでやる必要はない。ただ、そのようにして行ったわずかなことでも主は決して無駄にはされないことを知ることも大切である。

Q:先生が子どもを育てるうえで、大切にしたこと、意識したことって何ですか。

A:私たちは何かを押し付けようとは思わなかった。関心がないものを押し付けるとほとんど徒労に終わる可能性がある。またあまりにもチェックがひどいと身にならない場合が多い。それは私自身がそうだった。私の場合はこの子どもは何に関心があるかを確かめて、提供していく。私たちにとっての大切なことはどれほど身になっているかを考えることが重要である。いいものが出てきたら「すごい」とほめ、どんどんとその気にさせるということが重要だと感じていた。その内容で豊かにコミュニケーションをとっていく。子どもたちは自分で学んだことを親で整合性を確認していく。そうやって子どもが良し悪しの判断を覚えていくのだ。その中で子どもは得た知識、経験を親に語ってくるようになる。だからこそ「学んだことは何?それで?もっと言ってごらん?どう考えているの?」とどんどんと深めてコミュニケーションを行っていった。当時はそれこそ正誤を確かめる方法がなかった。今は調べればAIが答えてくれるようにまでなっている。もちろんそれですぐに正誤が出ないものもあるが、大体は答えが出る。とはいえ、親の価値観、考え方を子どもはそのような時間で学んでいく。そしてそれを自分の価値観として受け入れたり、世の中と比較して違いを考えたりするようになる。だからこそ、そのようなコミュニケーションの中ですり合わせをしていったり、新たな発見をして共に深めたりしていくことが大切なのである。
話は飛躍するようだが、私は自分という人間が特別ではなく、「おおよその人」でいいと思っている。それはみんなと同じなら、社会がマクロに合うようにというシステムになっているからこそ、問題なく、規格から外れずに済むからである。特別は一見、別格でうれしいようだが、他と違うゆえに一般的な治療が受けられなかったり、薬が効かなかったりするのと同様、ほかの人と同じ規格でいられなかったり、悩むようになる。普通で十分、おおよその人でいい。そうなりたいと願う。そうゆう事も教える必要がある。
子育ての話に戻るが、子どもとの関係の中ではただしいからそれでいいのかと思うこともある。親も子供をこれが正解という中で育てることはできない。絶対に大丈夫ということはない。だからこそ、私は常にあなたと居るよということが真理だと思う。子どもがお父さんとお母さんとできる限り一緒にいて、そこで人生を生き、両親を愛していくという中に自分を置いていくということが大切だと感じる。そして私はその人格を小さなコミュニティの中においておくことがより良いのではと感じている。それは私の今までやってきた範囲の中で言える解答である。子どもへの関心が一番大切になる。 次の日に大切な何かがあるとそちらに集中が行ってしまうということもある。「明日は朝から会議で頭がそれでいっぱい」などということもあるだろう。しかしそのような中でも「そうじゃない。まず目の前のこの子にと」意識を戻してそこに関心を持っていくようにと常に考えていくことが重要なのである。

Q:マルコの福音書11章24、25節「だからあなた方に言うのです。祈って求めるものは何でもすでに受けたと信じなさい。そうすれば、その通りになります。また立って祈っているとき、誰かに対して恨み言があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなた方の父も、あなた方の罪を赦してくださいます。」この聖句の「また立って祈っている」という限定的な意味は何ですか?

A:2017年版の新改訳聖書では、立ち上がるときと語られている。それを考えるならば、特定の姿勢の話ではなく、今祈ろうという意識の切り替わるタイミングをさしているのである。 私たちも赦されたものとして、その時に赦そうと決断する必要が求められている。赦しは相手の為だけではなく、自分の為でもある。赦しによって自分を開放できるのだ。そうでなければ自分を狂わせるものの中に閉じこもっていなければならない。しかし、神を愛し、愛されていることに感謝するゆえに赦しへと導かれるのである。私は赦していただくことが多かった。自分が赦されたからこそ、相手も赦すということを大切にできた。それによって私たちの中で様々なものを見出すことができる。
今日の列王記ではないが、彼らはヨシヤという王が改めたのにもかかわらず、理解することができず、悔い改めを求め、赦しへと至ることができなかった。だからこそ、彼らは「主の目の前に悪を行った」という評価を受け続けるようになるのである。神が与えてくださらないというだけでなく、当面している問題に取り組み続けていかなければならない。「私がするべきことは」とか、「私はこうしたい」という思いばかりが先行すると立ち行かなくなっていく。赦すということもできないと心が解放されず、とらえられていくことになる。だからこそ、赦すということによって目の前がすっと解放されるように思えるのだ。ぜひとも、聖言が定める一つ一つのことを信じて、乗り越えさせていただく私たちでありたく願う。

Q:コミュニケーションをとることの大切さが語られていましたが、どのような方法を行っていくことが大切ですか。

A:何が質問の中心にあるかということはあるが、私の考えを相手の考えとし、相手の考えを私の考えとすることができるかということはあると感じる。価値観という言葉がいいのかというのはあるが、人は価値観がないとそれができない。価値観が合わない、埋められないと大きい溝になる。だからこそ、愛する子供達には正しい価値観を植え付けていくための作業をいろいろ行ってきたと感じる。とはいえ、特に日々関わっていたのは盡子先生である。私も担っていないとは言えないが、多くは彼女が担っただろう。娘が中学校一年生のとき、合唱部の教師がクリスチャンであるにもかかわらず、教会の集会で練習に出られないといったらそれは親の強制で、子どもに選ぶ権利があると語った。盡子先生は娘と十分に話、何が大切で、何を選び取っていくのかという話をした。そもそも娘が合唱部に入ったのは讃美歌を上手に歌いたかったからである。彼女の土台には神に捧げる讃美歌という価値観があったのに、いつの間にか、合唱部でコンクールに出るためという目的に挿げ替えられるところだった。だからこそ、盡子先生はそもそもの目的は何だったのか、何を大切にしたかったのかと話したのだ。そして娘はそのことを選択した。結果的に合唱部の先生にはそのことが認められて、部に在籍することができるようになった。
私は変わりない姿勢をとり続け、盡子先生がそれを日常の中で整え、関わっていた。そのためには回り道のようなこともあった。しかし、5年、10年、15年と行っていくとそんなに差がないということもある。そして本人が「嫌々で納得がいかない」というのではなく、積極的にするということが大切なのである。ジムで私はサウナに入っているが、私をサウナに誘う兄弟がいる。彼は最初8分3回というメニューを耐えることができなかった。しかし、回数を重ねるうちに彼はそれに耐えられるようになった。そのうえ、最近はサウナの時計が壊れていて、砂時計の3分計を使って計っている。ただ、それだと9分になる。しかも、砂が無くなっているのに夢中で話しをしていて気付かないこともあり、長くなってしまうこともある。先日は11時に入ったら、3セット終えてサウナから戻った時11時50分だった。ただ、そのような機会を持ちながら、彼は私と積極的に話をしている。サウナはその意味で良い機会となっているのだ。 また何度も語っているが、関心を常に持ち続けてコミュニケーションをとっていくことが重要。それぞれの家庭にそれぞれの形がある。子どもたちも話がしたい。コミュニケーションを取りたいと思っている。だからこそ、折に触れてかかわりをもっていただきたい。
今月もこの機会がまた守られたことを感謝し、なお日々取り組み続けていきたく願う。

(仙台聖泉キリスト教会 牧師)