同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 万人祭司・万人予言者・万人王(第31回) —

野澤 睦雄

2. 旧約における三つの職務の考察(つづき)
2.2 預言者(つづき)

 預言者は祭司のように世襲でその職に就くのではなく、神が特定の個人を選ばれて、預言職に任じられました。各預言者はそれぞれ、その人に必要な神のお取り扱いを受け、その神経験を通して預言職に必要な品性や知見を与えられました。これまでの数回を使って、その実例としての預言者たちに対する神のお取り扱いを考察してきました。
 モーセは燃える柴のところで神のご臨在に触れ、そこで預言職への召命をうけました。彼が与えられた特筆すべき品性は、謙遜と柔和でした。 サムエルは神に呼ばれる経験をしました。彼は従順でした。 エリヤはホレブの山で神にお会いし、神観を正されました。 エリシャは召命を受けた時、この世からの分離を身を以て顕しました。 イザヤは「高く上げられた神」を見、祭壇の火を口に触れえていただいて、潔められました。 エレミヤは、母の胎内にいるときから聖霊に満たされた人、すでに神が預言者と定めた人でした。彼は神にお会いしましたが、その時神は彼の口に触れ、神のことばを授けられました。 エゼキエルもまた、ケルビムの上に座しておられる高く上げられた神を見、神のことばを授けられました。
 これらの全体が、新約の預言者に神がお与えになるものを示しています。エレミヤの経験から考察したように、私たちは性格まで一足飛びに変えられるのではなく、それぞれが個性を保ったまま、「キリスト(神)の人」に相応しい品性を与えられ、福音のことばを口に授けられて、語る人となるのです。旧約の預言者たちがそうであったと同様に、私たちもそれぞれが必要とする経験に導かれることでしょう。

 預言者について、エーリヒ・ザワーが「世界の救いの黎明」に述べている内容を紹介します。(いのちのことば社、1975年3月25日 改訂再刷 p.229以下から引用)聖句の羅列のような文ですべて引用箇所が記されていますが、引用箇所はもとの本でご覧下さい。

1 預言者は<話す人>である。
 彼らは神の通釈であり、神の解釈者であり、言い出す人であり、「神の口」である。・・主の御霊が預言者たちを「動かし」その御言を彼らの口に授け、彼らのうちにあって語られる。彼らの舌は「すみやかに物書く人の筆で」ある。そして彼らの伝えるものは「神の言」である。それゆえに旧約聖書の中では「主は言われる」という句がおよそ三千五百回でてくる。

2 預言者は<先見者>である。
 彼らはその伝えようとする事柄を伝える前に、まずそれを「見た」に違いない。それゆえにその伝える事柄は、それに「幻」が、ほとんど、あるいは全く伴われなくても、ごく一般にただ「幻」とだけ呼ばれている。
(1) <外的>感覚による知覚。
 預言者は「肉体に」あるものであって、彼は「霊のうちに」あるのではない。預言者はその肉体の感覚で見たり聞いたりする。
(2) <内的>感覚。
 預言者は「御霊に感じ」恍惚状態にもある。外的な事物に対しては、その目を閉じており、内的にはその目は「開いて」いる。預言者は内的に「見たり」あるいは「聞いたり」する。内的な「視覚」によって彼は絵画的啓示(幻)を受ける。(以下省略)
(3) 人間の心の普通の働きを、ただ増大することによる知覚。
 この場合、神は<夢>を強烈にして、それを神の言を伝える媒介とする、あるいは神は<悟性>の働きを強めて、その語る言を高い感激にまで達せしめる。たとえばハンナの讃美のうた、マリヤの讃美のうた、ザカリヤの讃美のうた。前の場合は普通の夢と内的な<絵画的>啓示との結びつきであり、あとの場合は「説教」と<言葉>による内的啓示への中間段階である。
 こうして神は預言者たちに、「多くに分かち、多くの方法をもって」語られたが、その基本となる主題は常に同じであった。すなわち、主のいつくしみ深い聖性と、この世におけるさばきと恵みとによって、完成に至る勝利の栄化であった。
 ここで特に重要なのは、「預言的知覚の法則」である。天上の世界には時間の制限がない。「永遠者の目には、すべてのものが現在である。」それゆえに預言者は時間の圏から神の圏に踏み入ることによって、同時に<超>時間の圏内に踏み入るのであって、永遠者の「語り手」として今やあらゆる時間的概念を超越する。それで預言者は未来を<未来>として見ることができるばかりでなく、同じ文の中で同時に<現在>と見ることもでき、またそれを<過去>と見ることさえもできるのである。「預言者はしばしば、時間的に遠くへだたっているものを、ごく近くに並べておく。そしてその歴史的な事件といういかりを、しっかりと捕らえながら、数千年以上ものへだたりのある現在と未来とのあいだの時期へ、しばしばとびこえてしまう」。
 こうして預言的「知覚」が生じる。これは預言者の完全さでもあり、不完全さでもある。 <高原を旅する人の目にうつる山々の頂上のように>、近い未来の出来事と遠い未来の出来事とが、非常に近くなってしまう。ユダの捕囚からの帰還と、終末時のイスラエルの集合、謙遜な姿でのキリストの来臨と、栄光の中でのキリストの再臨、それらがみなひとつの絵にまとめられている。なぜなら前のものは後ろのものの型であり、第二のものは第一のものの成就だからである。
 その特に著しい例は、来るべきヨベルの年についてのイザヤの預言である。これをナザレの会堂で公衆の前で読まれたとき、主はその文の真中で切ってしまわれた。それはその文のなかで預言者がメシヤの来臨から、間隔をおかずに再臨にとんでいるからである。これを会堂で読まれたとき、主はご自分の初臨のことだけを語られることを希望されたからである。
(以下次号)
(仙台聖泉キリスト教会員)

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